鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜

鬼神の寵愛

 若草色の綺麗な紙の中央に、大きく凛風と書く。止めと跳ねを意識して……。
 風の字の最後の跳ねを書き終えて息を吐く。そのまま凛風はすーはーと大きく呼吸をした。知らぬ間に息を止めてしまっていたようだ。
 肩を動かして呼吸をしていると、暁嵐が隣でくっくと笑った。

「息を止めるやつがあるか」

「き、緊張してしまって……」

 答えると、彼は凛風の書いた紙に視線を送った。

「だがよく書けている。弟も喜ぶだろう」

 その言葉に、凛風は嬉しい気持ちでいっぱいになる。彼が『よく書けている』と言うならば、浩然もそう思うはずだ。
 凛風が彼の寝所に呼ばれるようになって五日目の夜である。
 今宵凛風は、浩然への文をしたためている。
 とはいっても、自分の名を書いただけ。
 まだ言葉を書くことはできなくとも、自分の名を記すだけでも元気だということを伝えられるのではと暁嵐が言ってくれたのである。
 彼がくれた立派な紙は、どう見ても高直なものだった。
 いつもの紙とはわけが違う。手が震えるほど緊張したが、どうにか書くことができた。

「よく頑張った」

 紙を見て満足げに微笑む暁嵐に、凛風の胸はきゅんと跳ねる。
 その優しい眼差しに、もう十分だ思う。
 弟に文を書くという望みが叶った今、これ以上望むことはない。
 たとえ今ここで命を絶たれたとしても悔いはない、そんな気持ちだった。
 できることならこのまま、自分だけが消えてしまいたい。
 暁嵐と浩然、どちらの命を選ぶのか決めることなど凛風にはできそうにない。
 この幸せな気持ちを抱いたまま、自分の存在が消えてしまえばいいのに。
 文を見つめて、凛風はそんなことを考える。
 その間に、暁嵐が別の書物を持ってきて文台の上に広げた。
 首を傾げる凛風に、視線で書物を差し示す。開いてみろということか。

「わぁ……! 綺麗」

 手に取り、書を開いて凛風は声をあげた。
 そこには色とりどりの絵が描かれていたからだ。
 花が咲き鳥が飛ぶ美しい町、舞いを舞う美しい女性。
 字が書いてあるから、物語のようだ。
 物語が描かれた書は、妹の美莉の部屋を掃除した時にちらりと目にするくらいだったが、なにが書かれてあるのだろうといつも気になっていた。

「それをお前にやる」

「読んでくださるのですか?」

 凛風の胸は弾んだ。この美しい絵に、どんな物語が描かれているのだろう。
 だが彼は首を横に振る。

「いや、俺は読まない。これはお前が読むためのものだ」

「……私が?」

「ああ、名を書けるようになったのだから、次は他の字を教えてやる。このくらいならすぐに読めるようになる」

 その言葉に、凛風は書に視線を戻した。
 難しい字ばかりのように思う。とてもできそうにないと思うけれど、美しい絵を見ていると物語の内容を知りたくなる。

「できるでしょうか?」

 尋ねると、彼は力強く頷いた。

「俺が教えるのだから、できないはずがない」

 そして書物を見る凛風を後ろから包み込むように抱く。書物を持つ凛風の手に自らの手を重ねて紙をめくる。

「この物語は架空の話だが、舞台になった町は実際の町だ」

 耳元から聞こえる彼の声に、身体が熱くなっていくのを感じながら、凛風は問いかける。

「このような美しい町がこの国にあるのですか?」

 書物に描かれた町は花が咲き乱れ色とりどりの蝶が飛んでいる。天界か、あるいは頭の中で描かれた場所だと思っていたのに。

「ああ、南の方にある町だな。このあたりは冬がない。一年中暖かいからこのように花が咲き乱れているのだ」

「そのような場所がこの国に……?」

 信じられない話だが、皇帝である彼が言うのだから嘘ではない。

「夢のような場所ですね」

 凛風はため息をついた。冬が長い地方で育ち、凍える手で洗濯をしていた凛風にとっては、信じられない。
 耳元で彼が微笑む気配がした。

「望むなら、いつか連れていってやる」

 その言葉に、思わず振り返ると、彼は強い視線で凛風を見つめている。

 ――望むなら。

 なんの希望もない人生を歩んできた凛風には、その言葉は新鮮に耳に響いた。
 なにかを望むことなど、自分には許されかったことだ。

「望むなら……」

 彼の言葉を繰り返すと、彼は力強く頷いた。

「ああ、凛風。お前が望むなら」

 彼は皇帝なのだから、そのくらいわけないのだろう。
 それでもそれは叶うはずのないことだった。今この時は凛風にとっての最後の猶予期間、いつまでも続く時間ではない。たとえ彼が本気でもその『いつか』にふたりは存在しない。

 ――でも。

『望む』と、言いたいという思いが胸の中に芽生えるのを凛風は確かに感じていた。
 それははじめてここに来た夜に、彼から聞いた話が影響しているのは間違いない。
 己の心のままに生きられる世。
 その言葉が、あの日からずっと心に引っかかり、凛風の頭から離れなかったからだ。
 もしここが、己の心のままに生きられる世なら。
 凛風は、皇帝暗殺などという恐ろしい使命に臨むことはしない。
 ただ愛する者との平穏な日々を望むだろう。
 この夢のような町に行きたいと願うだろう。
 今はまだ言えないけれど……。
 目を伏せて答えられない凛風の頭に暁嵐の大きな手が乗る。

「今宵はこれで終いにしよう。この書物は部屋へ持ち帰っていいから、昼間に見ているといい。寝るぞ」

 そしてそっと離れて、寝台へ行き横になる。枕に肘をついた姿勢で凛風に向かって首を傾げた。
 自分の隣へ寝ろという意味だ。だが凛風はすぐに従うことはできなかった。
 はじめて彼の隣で眠った日から五日目が経ったが、彼と同じ寝台で寝ることにまだ慣れていない。
 とはいえずっとこうしているわけにもいかず恐る恐る寝台に上り、隅っこに身体を入れて横になる。
 皇帝用の寝台は他のものとは比べものにならないくらい広い。
 こうすれば同じ寝台にいると意識しなくてよいほど距離を取ることができる。
 だがそれで暁嵐は納得しない。

「そのように端で寝ては、夜中に転がり落ちてしまうぞ」

「大丈夫です……」

「なにが大丈夫だ。もう少しこっちへ来い。身体が冷える」

 なおも躊躇する凛風に、暁嵐が呆(あき)れたようにため息をついた。

「いつになったら慣れるのだ? 俺は伽をさせるつもりはないとは言ったが、そのように端で寝るのを許すとは言っていない。いつ転がり落ちるかと気になって眠れないではないか」

「ですが……」

 暁嵐がじろりと凛風を睨む。

「聞き分けのない妃は、腕の中に閉じ込めてしまおうか。そうすれば身体も冷えぬだろう」

 彼の言葉に凛風は耳まで赤くなる。そんなことをされては寝るどころの話ではない。
 急いで身体を起こしそろりそろりと移動して、彼の身体に触れるか触れないかのところで再び横になった。
 暁嵐がくっくっと笑った。

「俺の腕に抱かれると聞いてようやく従うとは、あいかわらず失礼なやつだ」

『失礼なやつだ』と言いながら心底愉快そうだ。そして、近くなった距離に熱くなる頬を隠すため掛布を鼻のあたりまで引き上げる凛風の頭を大きな手で撫でる。
 前髪を長い指で梳く、その手つきも言葉とは裏腹に優しかった。
 凛風の頭に少し前に一の妃から言われた言葉が浮かぶ。

「暁嵐さま、お尋ねしてもよろしいですか?」

「なんだ」

「暁嵐さまは、どうしてここまで私に親切にしてくださるのですか?」

 暁嵐が凛風の言葉に眉を上げる。そして、呆れたように口を開いた。

「……無垢すぎるのも困りものだな。後宮では、男女のことはなにも教えないのか」

 意味不明な呟きに凛風が首を傾げると、続きを口にする。

「男が女子にここまでしておいて、下心がないわけがないだろう?」

「え……? それってどういう……?」

 下心などという、考えてもみなかった言葉に瞬きを繰り返す凛風に、暁嵐はため息をつく。

「それくらいは自分で考えろ」

 面白くなさそうにそう言って、彼はこちらに背を向ける。

「もう寝ろ」

 その広い背中を見つめて、凛風の鼓動がとくとくとくと速くなった。
 思ってもみなかった彼の言葉の意味を考える。
 もしかして彼も自分と同じ気持ちなのだろうかという甘い期待が胸に広がっていく。
 目を閉じると、先ほどの書物に描かれていた花が咲き乱れる町が広がっていた。
 自分が置かれている状況には、なんの変化もない。
 先行きが絶望的であるのには変わりはないけれど、それでも今夜だけはこのふわふわとした気持ちを抱いたまま眠りにつきたかった。

 せめて夢の中でくらいつらいことは忘れていたいから……。

 そんな思いを胸に、凛風は眠りについた。
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