鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜
凛風の寝息が規則的になったのを感じて暁嵐はゆっくりと振り返る。眠る彼女の口もとには、うっすらと笑みが浮かんでいた。
のんきに眠る姿に、暁嵐は苦笑する。
無垢にもほどがあるだろう。
ついさっき〝下心がある〟と口にした男の隣にいるというのに、無防備に寝息を立てているのだから。
手を伸ばして黒い髪を撫でる。
指先に感じるさらさらとした感覚に、なにかが込み上げるような心地がした。
真っ白い柔らかい頬に、思わずそっと口づけると、どこか懐かしいような甘い香りに包まれる。
暁嵐は、ふーっと息を吐いて、自分の中の激情をやり過ごした。
その気がない妃には伽をさせないと言った自分の言葉を後悔しそうになってしまう。
鬼の力は女と閨をともにしている時は半減する。
今まではどうとも思っていなかったその現象を、恨めしいと思うくらいだった。
今宵の彼女の、書物に目を輝かせていた姿が暁嵐の衝動を駆り立てた。
皇帝として家臣に贈り物をすること自体は珍しくないが、自ら選んだのははじめてだった。
相手の反応が気になるのもはじめてで、彼女が喜ぶ姿に、心底安堵し自分も同じ気持ちになった。
あの町へ彼女を連れて行きたいと強く思う。
彼女が望むならどのようなことも叶えてやりたい。
焦りは禁物とわかっていながらも、彼女の口から望む言葉を聞きたいと思う。
くうくうと可愛らしい寝息を立てる彼女を見つめながら、暁嵐は口元に笑みを浮かべる。細い肩に、掛布をかけ直した時、あることに気がついて振り返った。
凛風を起こさぬようそっと寝台を下り、寝室と前室と隔てる観音扉を開いた。
「悪趣味だな、秀宇」
前室に跪き頭を下げている側近に声をかける。
凛風を起こさぬよう自分も前室へ入り扉を閉めた。
「皇帝と妃がいる寝屋に聞き耳立てるとは」
彼を見下ろし冗談を言った。
凛風を迎え入れている時は、暁嵐は寝所に特殊な結界を張っている。
どれほど大声をあげようが、外からは聞こえないようになっている。
「申し訳ありません」
押し殺したような声で、秀宇が答えた。
「まぁ、いい。先日は俺も熱くなって悪かった」
声を和らげてそう言うと、秀宇が安堵したように顔を上げた。
「暁嵐さま……」
凛風への対応について意見が分かれて言い合いになってから、彼はしばらく暁嵐の前へ顔を見せなかった。
皇帝の逆鱗に触れたから、会わせる顔がないということだろう。
暁嵐も彼の意見を汲まずに動いていることに後ろめたさを感じてそのままにしていた。
今夜様子をうかがうため清和殿に姿を見せたのは、それでも暁嵐が気になるということ。
兄弟のように育った忠実な側近のその気持ちを暁嵐は心底ありがたいと思う。
「今の宮廷の状況で俺の側近でいることは、気苦労が絶えないだけでなく命も危険に晒される。それでもそばにいてくれるのを俺はありがたいと思っている」
「暁嵐さま……。私は、私のことはよいのです。私はただ暁嵐さまに危険が及ぶことが心配なだけにございます」
秀宇が目に涙を浮かべる。
暁嵐は沈黙し、深い息をついた。
「凛風が刺客だという確たる証は確認した。彼女が常に挿している雪絶花の簪に術がかけてある。あの術をかけられるのは輝嵐しかいない。皇太后が彼女を刺客として閨に送ったという証になるだろう」
暁嵐の報告に、秀宇が静かに確認をする。
「ですが、暁嵐さまはそうなさるおつもりはないのですね?」
暁嵐はまた沈黙する。
凛風の簪を証として皇太后を糾弾するためには、皆が見ている前で凛風を捕らえて簪を抜いてみせる必要がある。
しかしそこまですれば、彼女は、皇帝暗殺未遂の罪から逃れることはできないだろう。皇帝に刃を向けようとした者は死罪である。
「暗殺は彼女自身の意思ではない。そのように育てられたか、あるいはなにかを盾にそう仕向けられている」
凛風の生い立ちを自分の目で確認してきた秀宇はそれには反論しなかった。
「彼女もまた俺と皇太后の権力争いに巻き込まれた被害者だ」
「ですが、皇太后一派を一掃する千載一遇の機会でもあります。多少の犠牲を払ってでも……とは思われませんか?」
あくまでも冷静に秀宇は言う。
暁嵐はそれを取り立てて非情な意見だとは思わなかった。
そうすることでこの後出てくる犠牲をなくすことができるのだから。
「秀宇、俺が父上の遺言に従い即位することを決断したのは、権力が欲しかったからではない。ただ母上のような者を出さぬ世を作りたいと思っただけだ」
「存じ上げております」
「そのような世は、できるだけ犠牲を出すことなく実現したいと思っている。身分の上下にかかわらず命の重さは皆同じだ」
そのことは身に沁(し)みてわかっている。
暁嵐の母親が死んだ時、妃の身分であったにもかかわらず詳細な調査はされなかった。所詮女官出身の女だと陰で言われていたのを聞いた時の悔しさが暁嵐の胸に焼きついている。
「御意にございます」
暁嵐は目を閉じて深い息を吐いた。
「……この場合は、皇帝としてはお前の言う通りにするべきだろう。彼女は犠牲になるが、この先起こりうる悲劇は避けられる。……それでも」
暁嵐はそこで言葉を切り、拳を握りしめた。
「俺は、凛風が俺に心を預けるのを待ちたいと思う」
「郭凛風が、こちらに寝返るという確証はありますか? 皇太后さまが暁嵐さまの思惑に気づかれる前に。もし気づかれてしまえば、即座に消されるでしょう」
そして暁嵐は皇太后を追い詰める証を失い、また振り出しに戻るのだ。
だがそれしか凛風の生きる道はない。どれほど危うい橋でも渡るしかないのだ。
「秀宇、馬鹿なことをしているのはわかっている。この件に関しては、完全にお前が正しい。それでも俺は、これだけは思うようにしたいのだ」
強い決意を口にして、暁嵐は秀宇を見つめた。
「暁嵐さま……」
今まで暁嵐は常に判断を間違えることなく正しい道を歩いてきた。
正しいと思うことのみを行ってきた。それが皇帝としての姿であり、そうある責務を負っている定めなのだ。
その暁嵐が間違っていてもその道を進みたいと告げたことに、秀宇は言葉を失っている。
「凛風を犠牲にし、皇太后を退けることができれば、俺が思い描いていた世を作ることができるだろう。だが俺は、その先を思い描くことができないのだ」
凛風がいなくなる。
想像するだけで、どす黒い感情が腹の中をぐるぐる回る。
彼女がいなくなったその先に、この国がどのようになろうと知ったことかと、もうひとりの自分が言う。
握った拳が赤く光った。
鬼の力は危ういもの。
怒りに支配されれば暴走し、どうなるか暁嵐にもわからない。
魑魅魍魎から人を守るという決まりごとがいつはじまったのかわからないが、それすらも馬鹿馬鹿しいと思うくらいだ。
凛風を救えなかった時、その怒りが皇太后のみならず人という存在自体に向かわないという自信がない。
赤く染まった目で、秀宇を見ると、彼は驚愕の表情で暁嵐を見ていた。
「暁嵐さま、それほどまでに郭凛風を……」
そして、床に手をついた。
「そうであるならば、私は全力をあげて郭凛風……いえ、凛風妃さまをお守りいたしましょう」
自分にもっとも忠実な側近からの言葉に、暁嵐はいくばくかの安堵を覚える。目を閉じて、漏れ出ていた鬼の力と荒ぶる心を落ち着かせる。
目を開いて秀宇に向かって口を開いた。
「ああ、頼んだ。まず彼女が皇太后になにを握られているのか、どうして刺客とならざるを得なかったかを詳しく調べてくれ」
「御意にございます」
秀宇が頭を下げた。
のんきに眠る姿に、暁嵐は苦笑する。
無垢にもほどがあるだろう。
ついさっき〝下心がある〟と口にした男の隣にいるというのに、無防備に寝息を立てているのだから。
手を伸ばして黒い髪を撫でる。
指先に感じるさらさらとした感覚に、なにかが込み上げるような心地がした。
真っ白い柔らかい頬に、思わずそっと口づけると、どこか懐かしいような甘い香りに包まれる。
暁嵐は、ふーっと息を吐いて、自分の中の激情をやり過ごした。
その気がない妃には伽をさせないと言った自分の言葉を後悔しそうになってしまう。
鬼の力は女と閨をともにしている時は半減する。
今まではどうとも思っていなかったその現象を、恨めしいと思うくらいだった。
今宵の彼女の、書物に目を輝かせていた姿が暁嵐の衝動を駆り立てた。
皇帝として家臣に贈り物をすること自体は珍しくないが、自ら選んだのははじめてだった。
相手の反応が気になるのもはじめてで、彼女が喜ぶ姿に、心底安堵し自分も同じ気持ちになった。
あの町へ彼女を連れて行きたいと強く思う。
彼女が望むならどのようなことも叶えてやりたい。
焦りは禁物とわかっていながらも、彼女の口から望む言葉を聞きたいと思う。
くうくうと可愛らしい寝息を立てる彼女を見つめながら、暁嵐は口元に笑みを浮かべる。細い肩に、掛布をかけ直した時、あることに気がついて振り返った。
凛風を起こさぬようそっと寝台を下り、寝室と前室と隔てる観音扉を開いた。
「悪趣味だな、秀宇」
前室に跪き頭を下げている側近に声をかける。
凛風を起こさぬよう自分も前室へ入り扉を閉めた。
「皇帝と妃がいる寝屋に聞き耳立てるとは」
彼を見下ろし冗談を言った。
凛風を迎え入れている時は、暁嵐は寝所に特殊な結界を張っている。
どれほど大声をあげようが、外からは聞こえないようになっている。
「申し訳ありません」
押し殺したような声で、秀宇が答えた。
「まぁ、いい。先日は俺も熱くなって悪かった」
声を和らげてそう言うと、秀宇が安堵したように顔を上げた。
「暁嵐さま……」
凛風への対応について意見が分かれて言い合いになってから、彼はしばらく暁嵐の前へ顔を見せなかった。
皇帝の逆鱗に触れたから、会わせる顔がないということだろう。
暁嵐も彼の意見を汲まずに動いていることに後ろめたさを感じてそのままにしていた。
今夜様子をうかがうため清和殿に姿を見せたのは、それでも暁嵐が気になるということ。
兄弟のように育った忠実な側近のその気持ちを暁嵐は心底ありがたいと思う。
「今の宮廷の状況で俺の側近でいることは、気苦労が絶えないだけでなく命も危険に晒される。それでもそばにいてくれるのを俺はありがたいと思っている」
「暁嵐さま……。私は、私のことはよいのです。私はただ暁嵐さまに危険が及ぶことが心配なだけにございます」
秀宇が目に涙を浮かべる。
暁嵐は沈黙し、深い息をついた。
「凛風が刺客だという確たる証は確認した。彼女が常に挿している雪絶花の簪に術がかけてある。あの術をかけられるのは輝嵐しかいない。皇太后が彼女を刺客として閨に送ったという証になるだろう」
暁嵐の報告に、秀宇が静かに確認をする。
「ですが、暁嵐さまはそうなさるおつもりはないのですね?」
暁嵐はまた沈黙する。
凛風の簪を証として皇太后を糾弾するためには、皆が見ている前で凛風を捕らえて簪を抜いてみせる必要がある。
しかしそこまですれば、彼女は、皇帝暗殺未遂の罪から逃れることはできないだろう。皇帝に刃を向けようとした者は死罪である。
「暗殺は彼女自身の意思ではない。そのように育てられたか、あるいはなにかを盾にそう仕向けられている」
凛風の生い立ちを自分の目で確認してきた秀宇はそれには反論しなかった。
「彼女もまた俺と皇太后の権力争いに巻き込まれた被害者だ」
「ですが、皇太后一派を一掃する千載一遇の機会でもあります。多少の犠牲を払ってでも……とは思われませんか?」
あくまでも冷静に秀宇は言う。
暁嵐はそれを取り立てて非情な意見だとは思わなかった。
そうすることでこの後出てくる犠牲をなくすことができるのだから。
「秀宇、俺が父上の遺言に従い即位することを決断したのは、権力が欲しかったからではない。ただ母上のような者を出さぬ世を作りたいと思っただけだ」
「存じ上げております」
「そのような世は、できるだけ犠牲を出すことなく実現したいと思っている。身分の上下にかかわらず命の重さは皆同じだ」
そのことは身に沁(し)みてわかっている。
暁嵐の母親が死んだ時、妃の身分であったにもかかわらず詳細な調査はされなかった。所詮女官出身の女だと陰で言われていたのを聞いた時の悔しさが暁嵐の胸に焼きついている。
「御意にございます」
暁嵐は目を閉じて深い息を吐いた。
「……この場合は、皇帝としてはお前の言う通りにするべきだろう。彼女は犠牲になるが、この先起こりうる悲劇は避けられる。……それでも」
暁嵐はそこで言葉を切り、拳を握りしめた。
「俺は、凛風が俺に心を預けるのを待ちたいと思う」
「郭凛風が、こちらに寝返るという確証はありますか? 皇太后さまが暁嵐さまの思惑に気づかれる前に。もし気づかれてしまえば、即座に消されるでしょう」
そして暁嵐は皇太后を追い詰める証を失い、また振り出しに戻るのだ。
だがそれしか凛風の生きる道はない。どれほど危うい橋でも渡るしかないのだ。
「秀宇、馬鹿なことをしているのはわかっている。この件に関しては、完全にお前が正しい。それでも俺は、これだけは思うようにしたいのだ」
強い決意を口にして、暁嵐は秀宇を見つめた。
「暁嵐さま……」
今まで暁嵐は常に判断を間違えることなく正しい道を歩いてきた。
正しいと思うことのみを行ってきた。それが皇帝としての姿であり、そうある責務を負っている定めなのだ。
その暁嵐が間違っていてもその道を進みたいと告げたことに、秀宇は言葉を失っている。
「凛風を犠牲にし、皇太后を退けることができれば、俺が思い描いていた世を作ることができるだろう。だが俺は、その先を思い描くことができないのだ」
凛風がいなくなる。
想像するだけで、どす黒い感情が腹の中をぐるぐる回る。
彼女がいなくなったその先に、この国がどのようになろうと知ったことかと、もうひとりの自分が言う。
握った拳が赤く光った。
鬼の力は危ういもの。
怒りに支配されれば暴走し、どうなるか暁嵐にもわからない。
魑魅魍魎から人を守るという決まりごとがいつはじまったのかわからないが、それすらも馬鹿馬鹿しいと思うくらいだ。
凛風を救えなかった時、その怒りが皇太后のみならず人という存在自体に向かわないという自信がない。
赤く染まった目で、秀宇を見ると、彼は驚愕の表情で暁嵐を見ていた。
「暁嵐さま、それほどまでに郭凛風を……」
そして、床に手をついた。
「そうであるならば、私は全力をあげて郭凛風……いえ、凛風妃さまをお守りいたしましょう」
自分にもっとも忠実な側近からの言葉に、暁嵐はいくばくかの安堵を覚える。目を閉じて、漏れ出ていた鬼の力と荒ぶる心を落ち着かせる。
目を開いて秀宇に向かって口を開いた。
「ああ、頼んだ。まず彼女が皇太后になにを握られているのか、どうして刺客とならざるを得なかったかを詳しく調べてくれ」
「御意にございます」
秀宇が頭を下げた。