鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜
 女官に付き添われて後宮へ戻っていく凛風の後ろ姿を見送って、自身も政務へ戻ろうと振り返ると、従者とともに秀宇がいた。
 その姿に暁嵐は眉を寄せる。
 彼との間のわだかまりはなくなったが、凛風と一緒にいるところを見られていたのは気まずかった。
 口づけを交わした場面は見られていなくとも厩で馬の身体の陰にて妃と話をしていたのだ。なにをしていたか、だいたいの想像はつくだろう。

「いつからいたのだ?」

 来ているならば、合図せよという嫌みを込めて問いかける。
 側近である彼は、暁嵐からの指示のみで動く。
 他の役人のように決められた役割はないから、神出鬼没なのだ。
 いつでも必要な時に話しかけてよいことになっているが、妃との逢瀬を覗いていいとは言っていない。
 嫌みを言われていることに気がついているはずなのに、彼は普段と変わらぬ様子で答えた。

「暁嵐さまが厩にて凛風妃さまに話しかけられた時より、この場から見ておりました」

 しれっとそんなことを言う秀宇に、暁嵐はため息をついた。

「お前、やっぱり悪趣味だな」

「これは大切なことにございますから。暁嵐さまは、凛風妃さまがこちらに寝返ると確信しておられるようですが、それで大丈夫とも限りません」

 平然としてそんなことを言う彼を、暁嵐はじろりと睨み歩き出す。
 合図を送ると秀宇以外の従者は離れていった。
 黄玉の間へ行く前に清和殿に寄ることにする。結界の中に入り、振り返った。

「俺の言うことが信用できないのだな?」

「そうではございません。ですがこう言ってはなんですが、暁嵐さまは男女のことにお詳しいとは言い難い。きちんとこの目で確認しておきたかったのでございます」

 ではその目で確認してどうだったのか?と聞く気にもなれず沈黙する暁嵐に、秀宇は訳知り顔で納得したように言葉を続けた。

「確かに凛風妃さまは、暁嵐さまを心よりお慕いされているご様子でした。自らの秘密を打ち明けるのも時間の問題でございましょう。ですが、暁嵐さま、あれはいかがなものかと存じます」

 秀宇が渋い表情になった。

「なにがだ?」

「逢瀬が厩というのはどうでしょう? 男女が会う場所としては、いまひとつ艶っぽさに欠けます。いいですか? 暁嵐さま。黒翔が暁嵐さまの大切な馬なのはわかりますが、自身が好きなものを女子に押し付けてはいけません。まずは相手の好きなものを知り、こちらから歩み寄るようしませんと。女子の心を掴みたいのであれば、東屋で甘い菓子と茶を用意するか、宝玉を贈るために商人に会わせるか……」

 つい先日まで凛風を敵対視して追及せよと言っていたのも忘れて、くどくどと説教する秀宇を、暁嵐はじろりと睨む。

「黒翔と凛風を会わせたのは、彼女の希望だ。彼女は馬が好きなのだ。菓子はともかく宝玉は喜ばぬだろう」

 朴念仁のように言われたのが癪で言い返すと、秀宇が信じられないというように眉を寄せる。

「馬が好き……? 宝玉を喜ばない……?」

「用がそれだけなら俺は政務に戻る」

「いえ、それだけではございません。ご報告があります」

 ならばくだらないことを言わずに早く言えと言いそうになるのをこらえて、暁嵐は頷いて続きを促した。

「凛風妃さまが皇太后に従う理由については引き続き探っておりますが、その中で気になる動きが。二日前に郭家の邸から出た馬車が、皇太后さまのご実家に入ったのを確認しました」

「馬車が? 郭家から誰かが皇太后の実家を訪れたということか」

「はい。しかも戻った形跡がありませんから、まだ滞在している模様」

「なるほど……」

 暁嵐は頷いた。

「凛風妃さまは、郭凱雲から刺客として使命を果たせと言い含められているのでしょう。ですが、子は親に従うものだから……という理由では少し無理があるような。なにしろ郭凱雲は、娘が後妻からひどい仕打ちを受けているのを知っていながら、かばうことは一度もなかったそうですから。父と娘というよりは、主人と召使……ならまだいい方で、下僕のようだったと言う者もいたくらいです」

「やはりなにかを盾に脅されている……か」

 暁嵐は黙り込み考えを巡らせた。
 自分の希望を口にすることにすら罪悪感を抱く凛風。
 黒翔の脚を心配する心優しい娘が、いったいなにを盾にされれば、皇帝の暗殺などという使命を果たそうとするのだろう?
 これまでの彼女の言動を思い出していた暁嵐はあることに思いあたり口を開いた。

「彼女には、確か弟がいるな? 彼を盾にされているのではないだろうか?」

 暁嵐の意見に、秀宇が首を傾げた。

「弟……にございますか? 確かに凛風妃には同じ母親から生まれた弟がおりますが、後継ぎとして後妻に養育され、もう何年も口をきいていないという話でした」

「だが、大切に思っているのは確かだ。弟に文を書くため字を習いたいと願っていたくらいだから」

「字を習って……」

 呟いて秀宇がなにかを思い出したような表情になる。

「そういえば、従者がここのところ頻繁に、暁嵐さまが筆と紙、小さな子が読むような絵付きの書物を所望されると言っていたような……」

 ぶつぶつ言ってこちらをちらりと見る。暁嵐は咳払いをして目を逸らした。

「とにかく弟の件を確認せよ。それから皇太后の実家に滞在しているのが何者かも含めて引き続き調べるように。俺は政務に戻る」

 少し強引に話を終わらせると、秀宇は「御意」と答えて下がっていった。
 外廊下の手すりに手をつき、暁嵐はため息をつく。
 秀宇と和解したのはよかったが、暁嵐を幼い頃から知っている分、やや遠慮なくものを言う。
 普段はそれでもかまわないのだが、凛風のことに関してはやはりやりにくくて仕方がない。
 だが諜報活動に関してはこの国一信頼できるのは確かだから、彼が凛風を救う方向で動いてくれるのはありがたかった。

 ――あと少しだ。

 暁嵐は先ほどの凛風を思い出す。
 自分の望みを口にした時の凛風は、この世で一番美しかった。
 桃色に染まる頬と、希望の色に輝く瞳。
 心が大きく揺さぶられ、不覚にも涙が出そうになったほどだ。
 彼女の心が光の差す方へ向きはじめているのは確かだ。
 自分のしたいことや叶えたい思いを口にするのは謝るべきことではなく、自然なことなのだと彼女が本心から理解すれば、暁嵐との道を選ぶ勇気が出るだろう。

 彼女の心が決まるまであと少し……。

 はじめて交わした口づけが、暁嵐の想いを加速させる。
 絶対に失うわけにはいかないと強く思う。
 もはやこの国の将来は彼女の選択にかかっていると思うくらいだ。
 だが、あまり時間がないのも確かだった。
 暁嵐が凛風と閨をともにしないまま、いたずらに時間が過ぎているのを皇太后が黙って見ているはずがない。
 近いうちに次の一手を仕掛けてくるだろう。
 その際、凛風に接触するかもしれない。
 どうしてもそれまでに凛風の気持ちを手に入れなければ。
 清和殿と外廊下で繋がる後宮の建物を睨み、暁嵐は考えを巡らせていた。
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