鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜
凛風の選択
皇太后再び
昼下がりの大廊下は妃たちで賑わいをみせている。
町から商人が来ているからだ。商品がずらりと並ぶ様子は、まるで市のようだった。
後宮から出られない妃たちの月に一度の楽しみだ。
凛風も女官に誘われて大廊下にやってきた。途端にきゃあきゃあと騒いでいた妃たちが静かになる。
だが、以前のようにヒソヒソとなにかを言われるわけではない。
宴の夜に暁嵐が怒りを露わにしたことが尾を引いているのだ。
あれ以来、嫌がらせや陰口はぴたりと収まった。
「凛風妃さま。お気に召したものがあれば、おっしゃってくださいまし」
隣の女官がにこやかに凛風に声をかける。色とりどりの布や、宝石を見ながら凛風は首を横に振った。
「私、金子がありませんから」
「ご心配には及びません。後宮長さまからは凛風妃さまは好きにお買い物してくださって大丈夫とお伺いしております」
「でも……」
そんな会話をしながら廊下を進む凛風はあるものに目をとめる。籠に入れられた白い小鳥だ。
「……それは? 部屋で飼うのですか?」
誰ともなく尋ねると、そばに座っていた商人が答えた。
「部屋で飼ってもよろしいですし、逃してもよろしいですよ」
「逃す……?」
少し不思議な答えに凛風が首を傾げると、今度は女官が説明する。
「善行を積むためにございます。よい行いをすれば、自分にもよいことがあるというではないですか。伝統的に後宮では陛下のお召しがあるようにと願うお妃さま方は競って鳥を空に放つのです」
籠の鳥を自由にしてやることで善行を積んだことになるとは、こじつけのような道楽みたいな話だ。まじないのようなものか。
そんなことを思いながら、白い鳥を見つめる凛風に商人が口を開いた。
「いかがです? お妃さま。逃さずともお部屋で飼っていただくだけでもよい行いをしたことになりますよ。なにしろこの鳥は、今日売れなければ、今夜の私の夕食になるのですから」
抜け目のない彼の答えに、女官が眉を寄せた。
「まぁ。そのように脅かすような物言いはおやめください」
「ははは、これは失礼」
商人の話が本当かどうかはわからないが、凛風は白い小鳥を買うことにした。他にほしいものはなかったから、籠を抱えて部屋へ戻る。
窓辺に籠を置いて考えた。
「この鳥、放った方がいいかしら?」
小鳥は凛風の部屋に来てもおとなしくしている。
ふわふわの羽を籠の隙間から指を入れて撫でてみると、嫌がりもせずおとなしくしていた。
あのまま商人のもとへ置いておくのが可哀想で買ってきたはいいけれど、どのようにするのがいいかわからなかった。
「このまま凛風妃さまが可愛がってやればいいじゃありませんか? 自由にしてやるのがよい行いと言いますが、本当のところこの鳥は逃してやっても長くは生きられませんから」
「……どういうこと?」
少し不穏な言葉に、凛風は眉を寄せる。
「餌の獲り方を知らない籠の鳥は、外の世界では長く生きられません。ほとんどが他の鳥の餌食になります」
ならばこのままここで飼う方がいいという意味で彼女は言ってくれたのだろう。
凛風はじっとしている小鳥を見つめて考える。
籠の中にいれば、自由はなく飛べないまま。だが少なくとも今は生きながらえることができるのだ。
でも凛風が使命を果たした暁には処分されるだろう。
窓の外は雲ひとつない晴れ渡った空だった。小鳥の天敵となる大きな鳥は飛んでいない。
しばらく空を見上げていた凛風は、籠の扉をそっと開ける。
どちらも危険な道ならば、小鳥自身に決めさせたいと思ったのだ。
扉が開いたことに気がついて、小鳥は首を傾げる。
そして止まり木から下り、ちょんちょんと飛び跳ねながら、籠の外に出てきた。
窓枠にとまり、不思議そうに空を見ている。
「あなたは、どうしたい?」
凛風が声をかけると、小鳥は黒い瞳で凛風を見る。そして、白い羽を羽ばたかせて、真っ青な空へ飛び立っていった。
瓦の屋根が並ぶ後宮の建物の上を大きく旋回し、ぴーっと鳴く。その小さな体から出たとは思えないほど力強い鳴き声に、凛風の胸は震えた。
――あのように、私も羽ばたきたい。
自らの羽を動かして、自分の心ままに飛んでいきたい。たとえその先が危険に満ちていても、凛風はそれを望んでいる。
自分で考え、望むことを口にすれば、きっと彼はこの大空のように凛風を受け止めてくれるはず。
――暁嵐さま。
青い空に凛風が暁嵐を思い浮かべた時。
「逃しておしまいになったんですね」
呼びかけられて、ハッとする。振り返ると女官がにこやかに笑っていた。
「鳥を逃すお妃さま方の中には、どこへでも飛んでいける鳥が羨ましいとおっしゃる方もいらっしゃるとか」
まるで、胸の内を読まれたような女官の言葉が、凛風の耳にざらりと聞こえる。
いつもと同じように見えるその笑顔にどうしてか不穏なものを感じて、胸がざわざわとした。
「私はなにも……」
口ごもると、女官が貼り付けたような笑顔のまま口を開いた。
「凛風妃さま、さるお方よりお会いしたいとの伝言をお預かりしております。これより参りましょう」
町から商人が来ているからだ。商品がずらりと並ぶ様子は、まるで市のようだった。
後宮から出られない妃たちの月に一度の楽しみだ。
凛風も女官に誘われて大廊下にやってきた。途端にきゃあきゃあと騒いでいた妃たちが静かになる。
だが、以前のようにヒソヒソとなにかを言われるわけではない。
宴の夜に暁嵐が怒りを露わにしたことが尾を引いているのだ。
あれ以来、嫌がらせや陰口はぴたりと収まった。
「凛風妃さま。お気に召したものがあれば、おっしゃってくださいまし」
隣の女官がにこやかに凛風に声をかける。色とりどりの布や、宝石を見ながら凛風は首を横に振った。
「私、金子がありませんから」
「ご心配には及びません。後宮長さまからは凛風妃さまは好きにお買い物してくださって大丈夫とお伺いしております」
「でも……」
そんな会話をしながら廊下を進む凛風はあるものに目をとめる。籠に入れられた白い小鳥だ。
「……それは? 部屋で飼うのですか?」
誰ともなく尋ねると、そばに座っていた商人が答えた。
「部屋で飼ってもよろしいですし、逃してもよろしいですよ」
「逃す……?」
少し不思議な答えに凛風が首を傾げると、今度は女官が説明する。
「善行を積むためにございます。よい行いをすれば、自分にもよいことがあるというではないですか。伝統的に後宮では陛下のお召しがあるようにと願うお妃さま方は競って鳥を空に放つのです」
籠の鳥を自由にしてやることで善行を積んだことになるとは、こじつけのような道楽みたいな話だ。まじないのようなものか。
そんなことを思いながら、白い鳥を見つめる凛風に商人が口を開いた。
「いかがです? お妃さま。逃さずともお部屋で飼っていただくだけでもよい行いをしたことになりますよ。なにしろこの鳥は、今日売れなければ、今夜の私の夕食になるのですから」
抜け目のない彼の答えに、女官が眉を寄せた。
「まぁ。そのように脅かすような物言いはおやめください」
「ははは、これは失礼」
商人の話が本当かどうかはわからないが、凛風は白い小鳥を買うことにした。他にほしいものはなかったから、籠を抱えて部屋へ戻る。
窓辺に籠を置いて考えた。
「この鳥、放った方がいいかしら?」
小鳥は凛風の部屋に来てもおとなしくしている。
ふわふわの羽を籠の隙間から指を入れて撫でてみると、嫌がりもせずおとなしくしていた。
あのまま商人のもとへ置いておくのが可哀想で買ってきたはいいけれど、どのようにするのがいいかわからなかった。
「このまま凛風妃さまが可愛がってやればいいじゃありませんか? 自由にしてやるのがよい行いと言いますが、本当のところこの鳥は逃してやっても長くは生きられませんから」
「……どういうこと?」
少し不穏な言葉に、凛風は眉を寄せる。
「餌の獲り方を知らない籠の鳥は、外の世界では長く生きられません。ほとんどが他の鳥の餌食になります」
ならばこのままここで飼う方がいいという意味で彼女は言ってくれたのだろう。
凛風はじっとしている小鳥を見つめて考える。
籠の中にいれば、自由はなく飛べないまま。だが少なくとも今は生きながらえることができるのだ。
でも凛風が使命を果たした暁には処分されるだろう。
窓の外は雲ひとつない晴れ渡った空だった。小鳥の天敵となる大きな鳥は飛んでいない。
しばらく空を見上げていた凛風は、籠の扉をそっと開ける。
どちらも危険な道ならば、小鳥自身に決めさせたいと思ったのだ。
扉が開いたことに気がついて、小鳥は首を傾げる。
そして止まり木から下り、ちょんちょんと飛び跳ねながら、籠の外に出てきた。
窓枠にとまり、不思議そうに空を見ている。
「あなたは、どうしたい?」
凛風が声をかけると、小鳥は黒い瞳で凛風を見る。そして、白い羽を羽ばたかせて、真っ青な空へ飛び立っていった。
瓦の屋根が並ぶ後宮の建物の上を大きく旋回し、ぴーっと鳴く。その小さな体から出たとは思えないほど力強い鳴き声に、凛風の胸は震えた。
――あのように、私も羽ばたきたい。
自らの羽を動かして、自分の心ままに飛んでいきたい。たとえその先が危険に満ちていても、凛風はそれを望んでいる。
自分で考え、望むことを口にすれば、きっと彼はこの大空のように凛風を受け止めてくれるはず。
――暁嵐さま。
青い空に凛風が暁嵐を思い浮かべた時。
「逃しておしまいになったんですね」
呼びかけられて、ハッとする。振り返ると女官がにこやかに笑っていた。
「鳥を逃すお妃さま方の中には、どこへでも飛んでいける鳥が羨ましいとおっしゃる方もいらっしゃるとか」
まるで、胸の内を読まれたような女官の言葉が、凛風の耳にざらりと聞こえる。
いつもと同じように見えるその笑顔にどうしてか不穏なものを感じて、胸がざわざわとした。
「私はなにも……」
口ごもると、女官が貼り付けたような笑顔のまま口を開いた。
「凛風妃さま、さるお方よりお会いしたいとの伝言をお預かりしております。これより参りましょう」