鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜

最後の夜

 その夜、凛風が暁嵐の寝所へ行くと珍しく彼はおらず、政務が長引いているから先に寝ているようにと、伝言があった。
 いつも彼と手習いをする椅子に座り、凛風は部屋を見回した。
 炎華祭が明日ということは、今夜が凛風にとってこの寝所で過ごす最後の夜だ。
 彼のための調度品は、凛風が手習いをするための机を除けば、椅子と大きな寝台のみ。皇帝の寝所にしては簡素なこの部屋は、彼の性格を表しているように思えた。
 机の上に並べられた文箱と紙に、凛風の胸は締め付けられる。ここで彼にたくさんのことを教わった。
 字だけでなく、自分の頭で自分の行く末を考えること。
 望むことを口に出すこと。
 そして誰かを愛することの喜び。
 実家にいた時の弱い自分はもうどこにもいなかった。ずっと止まっていた凛風の刻を彼は動かしてくれたのだ。
 自分の置かれている状況は変わっていない。むしろ悪くなっていると言えるだろう。
 彼を愛してしまったから、自分が突き進むしかない悲劇的な結末に、耐えがたい苦しみを感じてしまう。
 彼とともに生きたかったという思いに苛まれるのだ。
 それでも、以前の自分に戻りたいとは思わなかった。
 心を凍らせ自分の頭で考えることはせず、ただ言われたことに『否』と言わず従うだけ。そして重い罪を犯し一生を終える。
 そんなことのために自分は生まれたのではないと強く思う。暁嵐に凛風の存在を認めてもらった今、それだけは確信している。
 悲劇的な結末は、変えられないかもしれない。けれどそれでも流されるのではなく自分で決めたいと思う。

「寝ていなかったのか」

 声をかけられて、凛風は顔を上げる。物思いにふけているうちに、暁嵐が来ていたようだ。

「暁嵐さま。遅くまで政務、おつかれさまでございました」

「ああ、遅くなってすまない。炎華祭の支度で少しな」

 彼の口から出た炎華祭の言葉に、凛風の胸がどきりと鳴る。

「……国中の人たちが、暁嵐さまに感謝の品を捧げるためのお祭りだとか」

 思わず目を伏せてそう言うと、彼は頷いた。

「そうだ。まぁ、実際は捧げ物のためにやっているわけではない。各地の作物の出来具合を俺が直接見るためだ。作物の出来がよくない地域は、民の生活が脅かされる。各地の様子はその地を治める家臣たちの報告で把握しているが、そういうものは真実ではない場合もある」

「そうなんですか」

 やはり……と凛風は思う。
 彼はこの国に必要不可欠な存在だ。彼が作る世が、民にとっては必要だ。
 そして凛風自身もそれを強く望んでいる。
 どのような理由でも、彼を失うことなど絶対にあってはならない。
 たとえ凛風自身が彼の作る世を見られなくとも……。

「各地の伝統舞踊も披露されるから、お前も楽しめるだろう。華やかな場は苦手だろうが、明日は俺がそばにいる」

「私も連れていってくださるのですか?」

「離宮へは妃をひとり連れていくことになっている。お前以外誰がいる? 俺の妃は後にも先にもお前だけだ」

 そう言って彼は柔らかく微笑んだ。
 もうこの言葉だけでいいと、凛風は思う。この言葉が、自分が決めた道へのほんの少しの恐れを吹き飛ばしてくれた。

『俺の妃はお前だけ』

 その言葉を胸に、凛風は自分の頭で考えた正しいと思うことを実行する。
 唇をキュッと噛みうつむいたまま暁嵐の衣服をそっと掴む。

「暁嵐さま。その……少し灯りを落としてもらえますか?」

 頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、暁嵐が訝しむように目を細めた。
 唐突に意外なことを言う凛風に、暁嵐の戸惑いが空気を通して伝わってくる。恥ずかしくて顔を上げることもできなかった。
 彼からの答えはない。
 けれどしばらくして灯りは落ち、部屋が薄暗くなった。
 どきんどきんと鼓動がうるさく鳴るのを聞きながら、凛風は髪に刺している雪絶華の簪をゆっくりと引き抜いて、そばにある台にコトリと置く。
 今宵だけは、この簪を外して彼と過ごすと決めたのだ。これだけ部屋が暗ければ、彼が紫色に染まる先端に気がつくことはないだろう。
 暁嵐が、台の上の簪を無言で見つめている。
 自分がこれからしようとしていることを考えると、とても平常心ではいられない。妃の方から皇帝に愛を求めるなど、してはいけないことなのかもしれない。それでも凛風が正しいと思う道を進むためには、どうしても必要なことなのだ。
 こくりと喉を鳴らして、凛風は暁嵐に歩み寄り、意を決して彼の胸に抱きついた。

「暁嵐さま……」

「……凛風?」

 突然の凛風の行動に、暁嵐が掠れた声を出した。恥ずかしくてたまらないけれど、どうしても今の私には必要なのだと、自分自身に言い聞かせる。
 彼の衣服に顔をうずめて、凛風はその言葉を口にした。

「私を……暁嵐さまの本当のお妃さまにしてください」

 これで想いが伝わるのか、彼が受け入れてくれるのか、凛風にはわからない。けれどこれが自分にできる精一杯だった。
 足りないところはあるだろうが、それでも凛風の望みは正確に伝わったようだ。彼の腕が凛風の身体を包み込み、低い声が甘く耳に囁いた。

「凛風」

 その声音に、誘われるままに顔を上げると、熱を帯びた瞳が凛風を見つめていた。
 こんな彼ははじめてだ。
 そう思った瞬間に、彼も自分と同じ気持ちなのだと確信して、凛風の胸は喜びに震えた。

「暁嵐さま、私の心は暁嵐さまだけを求めています。私……暁嵐さまのものになりたい」

 暁嵐の目尻が赤みを帯びる。その赤い光を綺麗だと思ったその刹那、熱く唇を奪われた。
 はじめから深く入り込む彼に、拙い動きで応えながら凛風はゆっくり目を閉じる。
 今夜だけはなにもかも忘れて彼の愛だけを感じていようと心に決める。
 この出会いが皇后によって仕組まれたことならば、今こうしていることも間違いだ。
 けれど今はこれでよかったと心から思う。
 彼と過ごした時間が、凛風に心を与えてくれた。自らの意思で前に進む力をくれたのだ。

「凛風、お前が愛おしい」

 暁嵐の唇が愛を囁き、傷だらけの肌を辿る。それだけで強くなれるような気がした。
 彼の吐息が、熱い想いが、凛風の心を刺激して身体が燃え上がるように熱くなっていく。

 ――覚えていよう、と凛風は思う。
 彼の唇の感触を。
 髪を優しくなでる大きな手の温もりを。
 彼がくれたたくさんの愛を。
 たとえこの身体が消えてしまっても、強く願えば想いは残ると思うから。
 もうすぐ迎える最期の時に、幸せな人生だったと胸を張って言えるから。

「暁嵐さま……暁嵐さま」

 目を閉じると、いつかの夜、彼が連れていくと約束してくれたあの花の町が広がっている。
 怖くはない。
 私はもう弱くないから。
 都が初夏の香りに包まれていたその夜に、凛風は愛する人の妃となり、たったひと夜の幸せを心と身体に刻み込んだ。
 胸に、ある決意を秘めながら。
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