鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜
凛風の選択
離宮にある皇帝のための寝所は、大きな池の中央に浮かぶように建てられていた。水鳥が羽を休め眠る水面に、黄金色の月が映っている。ゆらゆらと輝く光を凛風は窓から眺めている。
祭を終えて、寝支度を整えた今、暁嵐を待っている。
皇太后がこの場所で謀反を起こすと決めた理由が、わかるような気がした。
ここならば、寝所からの逃げ道はひとつしかない。寝所から陸へと続く橋には人気はないように見えるけれど、おそらくはすでに皇太后の息がかかった家臣たちに押さえられているのだろう。袋の鼠というわけだ。
夜の空を見上げながら、凛風は今日一日のことを思い返していた。
今日は、本当に幸せな一日だった。
国中の伝統舞踊を目の前で見られたというだけでなく、正真正銘の暁嵐の妃として、彼と肩を並べたのだ。それが嬉しくて幸せだった。
皇太后と通じている自分には本来ならそのような資格はない。けれど今夜を成功させれば、そうではなくなるのだ。そして必ずそうなるという自信が凛風にはある。
「疲れていないか」
声をかけられて振り返ると、いつの間にか暁嵐が部屋へ入ってきていた。
「はい、暁嵐さま。今日は素晴らしいものを見せていただきありがとうございます」
凛風が心から礼を言うと、暁嵐はこちらへやってきて凛風を抱き上げる。
「きゃっ!」
凛風は声をあげ彼の衣服を握った。
唐突に近くなった距離に鼓動が飛び跳ね戸惑う凛風に、暁嵐はふっと笑う。そして熱くなる凛風の頬に柔らかい口づけを落とした。
それだけで、凛風は頭の中が茹で上がるような心地がする。
濃くなった彼の香りと頬に感じる彼の吐息と唇の感触、寝所でふたりきりという状況に、どうしても昨夜のことを思い出してしまったからだ。
思わず両手で顔を覆った。真っ赤になってしまっているのが恥ずかしくてたまらなかった。
「なんだこのくらいで。昨夜はもっと深く触れ合ったというのに」
暁嵐は機嫌よく言って、部屋を横切り凛風を寝台へ下ろした。そして凛風の頬を大きな手で包み込む。
「今日の祭りを凛風が楽しんだのならよかったが、まだ身体がつらくはないかと俺は気が気じゃなかった」
「だ、大丈夫です……。美味しい果物も食べさせてもらいましたし」
熱を帯びた彼の視線から逃れるように目を伏せて、少し話題を逸らす。
昨夜は無我夢中だったから、普段の自分ならしないことをして、言えない言葉を口にできた。
でも今は、彼の口から昨夜の出来事の片鱗が見えるのは耐え難いほど恥ずかしい。
「かの地の舞を見られたのが嬉しかったです。本物は想像をはるかに超えるものなのですね」
「ああ、次はかの地にてあの舞を見せてやる」
力強く約束する暁嵐に、凛風の胸がギュッとなった。
その日は……絶対に来ないのだ。
「……はい。楽しみです」
お腹に力を入れて涙が出そうになるのをこらえた。
そしてうつむき唇を噛む。いよいよ自分のするべきことを実行する時が来たと自分自身に言い聞かせる。意を決して顔を上げ彼を見た。
「暁嵐さま、お話ししたいことがあります」
真剣な目で彼を見つめる凛風に暁嵐もまた笑みを消し、真っ直ぐな眼差しを返した。
「私、暁嵐さまに隠していることがあります。今宵はそれをお話ししたいと思います」
突然はじまった凛風の告白を、暁嵐は驚く様子もなく静かな眼差しで受け止める。その視線に大丈夫だと確信する。
彼はきっと、凛風の言うことを信じてくれる。
「私が、今ここにいるのは……」
そこでいったん言葉を切る。緊張で息苦しさを感じたからだ。
愛する人への裏切りを口にするのはつらかった。けれど、言わなくては。
「ここにいるのは、こ、皇后さまと父に命じられたからなのです……」
とても彼の目を見ていられなくて、凛風は目を伏せる。あとは、何度も頭の中で繰り返し練習した通りに言葉を続ける。
「私は、皇太后さまと父から、ね、閨の場で暁嵐さまを殺めるよう使命を受けた、刺客なのです。後宮入りしたことも、湯殿で出会ったことも、すべて暁嵐さまを亡き者にするための計画だったのです……」
凛風にとって大切な彼との出来事をこんな風に言葉にするのはつらかった。溢れる涙が頬を伝い膝の上で握った手に、ぽたりぽたりと落ちた。
「だ、だけど、だけど私は……!」
「凛風」
温かい声に遮られて凛風が驚いて彼を見ると、暁嵐はいつもと変わらない優しい目で凛風を見つめている。そして驚くべきことを口にした。
「知っていた」
「…………え?」
「お前が刺客だということは、はじめからわかっていた」
「暁嵐さま……?」
彼が口にした言葉の内容に、あまりに衝撃を受けすぎて、凛風の思考が停止する。
刺客であることは誰にも知られていないはず。
だからこそ凛風は暁嵐の寝所に上がることができたのだ。
寵愛を受けることになったのだ。
それなのに、彼がはじめから知っていた?
答えられない凛風に、暁嵐がふっと笑う。そして種明かしをはじめる。
「俺は生まれた時から皇太后に命を狙われてきた。身の回りの変化には常に気を張っている。皇太后が絡んでいるかどうかは、だいたい勘でわかるんだ。湯殿で凛風と出会った時から、あやしいと踏んでお前のことはすぐに調べた。そして後宮入りするには不自然すぎる生い立ちを知った」
「出会った時から……」
唖然としながら凛風は呟く。では彼は、凛風自身が仕組まれた出会いだったと知る前から気がついていたというわけか。
信じられないと思うけれど、彼が鬼であるということ、これまでの皇太后との経緯から考えると納得だ。
「ああ、だいたいの予測はついていた。お前自身が皇太后の差し金だと気が付かぬまま、俺と会っていることもな」
そう言って彼はくっくと笑う。
それに凛風はますます唖然として、呆れてしまうくらいだった。
そこまでわかっていたのならどうして彼は今まで黙っていたのだろう?
皇太后の策略に乗るような危険な真似をしているのだろう?
「暁嵐さま、ならどうして……?」
まったく彼の考えがわからなかった。
己の心のままに生きられる世を作りたいと語った彼にとって、皇太后は最大の障害だ。凛風が刺客だと見抜いていたならば、捕らえて皇太后を糾弾すればよかったのだ。
それがこの国ためになるというのに。
「どうして私を捕らえなかったのですか?」
問いかけると、彼は一瞬沈黙する。凛風を見つめる目を細め、温かい声で答えた。
「お前を愛しいと思うようになったからだ」
「暁嵐さま……?」
「お前を失いたくないと思ったのだ。なんとしてもこの手で救いたかった。だから俺は皇太后の策略に乗せられたふりをしてお前が俺に心を預けてくれるのを、真実を話してくれるのを待っていた」
彼の言葉に、凛風の目に再び涙が浮かび頬を伝う。
こんなにも深い愛に包まれていたのだという、幸せな想いで胸がいっぱいになった。
「凛風、俺はこの日を待っていた」
力強く抱きしめられて彼の胸に顔を埋める。喜びの涙は後から後から流れ出た。
言葉にできないほどの過酷な生い立ちも、刺客として過ごしたつらい日々も、なにもかもが吹き飛び、この世で一番幸福な一生を送ったのだと思うくらいだ。
――本当にもう十分だ。これ以上望むものはない。
凛風はそっと彼から身を離し、もうひとつ言わなくてはならないことを口にする。
「暁嵐さま、今宵この離宮は、皇太后さまに組みする者たちが取り囲んでおります。暁嵐さまに謀反を起こすために」
暁嵐が頷いて、話の続きを促した。
「私が皇太后さまに合図すれば、皆この寝所を目がけて乗り込んで来る手筈になっております。その際は、皇后さまへの忠誠の証として、それぞれの家紋が描かれた旗を高く掲げているでしょう。彼らを一網打尽にすれば、宮廷に平穏をもたらすことができます」
暁嵐が凛風の肩を掴み、大きく息を吐く。
「わかった。話してくれてありがとう。後は俺に任せろ」
力強い言葉に、凛風は心底安堵する。
今宵は彼が皇太后一派を一掃できる絶好の機会。だが刺客だと明かしてもなお彼が凛風の話を信じてくれるかどうかだけが心配だったのだ。
この国が、己の心のままに生きられる世になると確信する。
――私は見られないけれど。
「凛風、皇太后への合図というのは?」
暁嵐からの問いかけに、凛風はこくりと喉を鳴らす。いよいよ、この時が来た。
自分を見つめる暁嵐の目を見つめ返すと、彼と自分の間に起こったことが頭の中を駆け巡る。幸せだったと確信して、凛風は口を開いた。
「――合図は、これです」
言うと同時に、素早く頭の簪を引き抜いて、握り直し一気に自分の喉を突く。鋭い衝撃を身体全体で受け止める。
「凛風!!」
驚愕の表情で暁嵐が叫んだ。
「この……簪が血を吸うと輝嵐さまが感じ取るよう術がかけてあります。……それを合図に……」
痛みは感じないけれど、簪が刺さった箇所が燃えるように熱くて、うまく声が出なかった。
身体の力が抜けて寝台に手をつくと、暁嵐の腕に抱かれる。
「どうしてこんなことを!!」
暁嵐の怒号が寝所に響く。こんなに怒りを露わにする彼ははじめてだ。彼の腕に身を預ける凛風の目尻から涙がつっと伝う。
「弟を……人質に取られています。今は皇太后さまのすぐそばに……。今宵私が失敗すれば、即座に処分されてしまう」
凛風は、暁嵐を選んだのだ。
この国のため民のためと言いながら、ただ愛する人に刃を向けられなかっただけなのかもしれない。
いずれにしても。
「ひとりで逝かせるわけには……いきません……。たい、せつな弟なのです。私の生きがいだった……」
「凛風……」
痛ましげに眉を寄せる暁嵐の服を、もうあまり力の入らない震える手で掴む。
「暁嵐さまは、私に……心をくださいました。私に、考える力をくださいました……。お、己の心のままに……生きら……」
苦しくてゴホッと咽せると、大量の血が口から溢れた。
「凛風! しゃべるな。今俺が……!」
凛風は被りを振って言葉を続ける。
「己の心のままに、生き……られる世を作って……もう、私みたいな者を出さぬ世を」
必死の形相で覗き込む暁嵐が霞んでいく。もう自分の声が出ているのかすらわからなかった。相変わらず痛みもなにも感じない。ただ暁嵐の声だけははっきりと聞こえた。
「凛風、わかった。約束する、約束するから、頼むからもう……」
その言葉に心底安堵して、凛風の体から力が抜ける。同時に世界は真っ黒な闇に閉ざされた。
祭を終えて、寝支度を整えた今、暁嵐を待っている。
皇太后がこの場所で謀反を起こすと決めた理由が、わかるような気がした。
ここならば、寝所からの逃げ道はひとつしかない。寝所から陸へと続く橋には人気はないように見えるけれど、おそらくはすでに皇太后の息がかかった家臣たちに押さえられているのだろう。袋の鼠というわけだ。
夜の空を見上げながら、凛風は今日一日のことを思い返していた。
今日は、本当に幸せな一日だった。
国中の伝統舞踊を目の前で見られたというだけでなく、正真正銘の暁嵐の妃として、彼と肩を並べたのだ。それが嬉しくて幸せだった。
皇太后と通じている自分には本来ならそのような資格はない。けれど今夜を成功させれば、そうではなくなるのだ。そして必ずそうなるという自信が凛風にはある。
「疲れていないか」
声をかけられて振り返ると、いつの間にか暁嵐が部屋へ入ってきていた。
「はい、暁嵐さま。今日は素晴らしいものを見せていただきありがとうございます」
凛風が心から礼を言うと、暁嵐はこちらへやってきて凛風を抱き上げる。
「きゃっ!」
凛風は声をあげ彼の衣服を握った。
唐突に近くなった距離に鼓動が飛び跳ね戸惑う凛風に、暁嵐はふっと笑う。そして熱くなる凛風の頬に柔らかい口づけを落とした。
それだけで、凛風は頭の中が茹で上がるような心地がする。
濃くなった彼の香りと頬に感じる彼の吐息と唇の感触、寝所でふたりきりという状況に、どうしても昨夜のことを思い出してしまったからだ。
思わず両手で顔を覆った。真っ赤になってしまっているのが恥ずかしくてたまらなかった。
「なんだこのくらいで。昨夜はもっと深く触れ合ったというのに」
暁嵐は機嫌よく言って、部屋を横切り凛風を寝台へ下ろした。そして凛風の頬を大きな手で包み込む。
「今日の祭りを凛風が楽しんだのならよかったが、まだ身体がつらくはないかと俺は気が気じゃなかった」
「だ、大丈夫です……。美味しい果物も食べさせてもらいましたし」
熱を帯びた彼の視線から逃れるように目を伏せて、少し話題を逸らす。
昨夜は無我夢中だったから、普段の自分ならしないことをして、言えない言葉を口にできた。
でも今は、彼の口から昨夜の出来事の片鱗が見えるのは耐え難いほど恥ずかしい。
「かの地の舞を見られたのが嬉しかったです。本物は想像をはるかに超えるものなのですね」
「ああ、次はかの地にてあの舞を見せてやる」
力強く約束する暁嵐に、凛風の胸がギュッとなった。
その日は……絶対に来ないのだ。
「……はい。楽しみです」
お腹に力を入れて涙が出そうになるのをこらえた。
そしてうつむき唇を噛む。いよいよ自分のするべきことを実行する時が来たと自分自身に言い聞かせる。意を決して顔を上げ彼を見た。
「暁嵐さま、お話ししたいことがあります」
真剣な目で彼を見つめる凛風に暁嵐もまた笑みを消し、真っ直ぐな眼差しを返した。
「私、暁嵐さまに隠していることがあります。今宵はそれをお話ししたいと思います」
突然はじまった凛風の告白を、暁嵐は驚く様子もなく静かな眼差しで受け止める。その視線に大丈夫だと確信する。
彼はきっと、凛風の言うことを信じてくれる。
「私が、今ここにいるのは……」
そこでいったん言葉を切る。緊張で息苦しさを感じたからだ。
愛する人への裏切りを口にするのはつらかった。けれど、言わなくては。
「ここにいるのは、こ、皇后さまと父に命じられたからなのです……」
とても彼の目を見ていられなくて、凛風は目を伏せる。あとは、何度も頭の中で繰り返し練習した通りに言葉を続ける。
「私は、皇太后さまと父から、ね、閨の場で暁嵐さまを殺めるよう使命を受けた、刺客なのです。後宮入りしたことも、湯殿で出会ったことも、すべて暁嵐さまを亡き者にするための計画だったのです……」
凛風にとって大切な彼との出来事をこんな風に言葉にするのはつらかった。溢れる涙が頬を伝い膝の上で握った手に、ぽたりぽたりと落ちた。
「だ、だけど、だけど私は……!」
「凛風」
温かい声に遮られて凛風が驚いて彼を見ると、暁嵐はいつもと変わらない優しい目で凛風を見つめている。そして驚くべきことを口にした。
「知っていた」
「…………え?」
「お前が刺客だということは、はじめからわかっていた」
「暁嵐さま……?」
彼が口にした言葉の内容に、あまりに衝撃を受けすぎて、凛風の思考が停止する。
刺客であることは誰にも知られていないはず。
だからこそ凛風は暁嵐の寝所に上がることができたのだ。
寵愛を受けることになったのだ。
それなのに、彼がはじめから知っていた?
答えられない凛風に、暁嵐がふっと笑う。そして種明かしをはじめる。
「俺は生まれた時から皇太后に命を狙われてきた。身の回りの変化には常に気を張っている。皇太后が絡んでいるかどうかは、だいたい勘でわかるんだ。湯殿で凛風と出会った時から、あやしいと踏んでお前のことはすぐに調べた。そして後宮入りするには不自然すぎる生い立ちを知った」
「出会った時から……」
唖然としながら凛風は呟く。では彼は、凛風自身が仕組まれた出会いだったと知る前から気がついていたというわけか。
信じられないと思うけれど、彼が鬼であるということ、これまでの皇太后との経緯から考えると納得だ。
「ああ、だいたいの予測はついていた。お前自身が皇太后の差し金だと気が付かぬまま、俺と会っていることもな」
そう言って彼はくっくと笑う。
それに凛風はますます唖然として、呆れてしまうくらいだった。
そこまでわかっていたのならどうして彼は今まで黙っていたのだろう?
皇太后の策略に乗るような危険な真似をしているのだろう?
「暁嵐さま、ならどうして……?」
まったく彼の考えがわからなかった。
己の心のままに生きられる世を作りたいと語った彼にとって、皇太后は最大の障害だ。凛風が刺客だと見抜いていたならば、捕らえて皇太后を糾弾すればよかったのだ。
それがこの国ためになるというのに。
「どうして私を捕らえなかったのですか?」
問いかけると、彼は一瞬沈黙する。凛風を見つめる目を細め、温かい声で答えた。
「お前を愛しいと思うようになったからだ」
「暁嵐さま……?」
「お前を失いたくないと思ったのだ。なんとしてもこの手で救いたかった。だから俺は皇太后の策略に乗せられたふりをしてお前が俺に心を預けてくれるのを、真実を話してくれるのを待っていた」
彼の言葉に、凛風の目に再び涙が浮かび頬を伝う。
こんなにも深い愛に包まれていたのだという、幸せな想いで胸がいっぱいになった。
「凛風、俺はこの日を待っていた」
力強く抱きしめられて彼の胸に顔を埋める。喜びの涙は後から後から流れ出た。
言葉にできないほどの過酷な生い立ちも、刺客として過ごしたつらい日々も、なにもかもが吹き飛び、この世で一番幸福な一生を送ったのだと思うくらいだ。
――本当にもう十分だ。これ以上望むものはない。
凛風はそっと彼から身を離し、もうひとつ言わなくてはならないことを口にする。
「暁嵐さま、今宵この離宮は、皇太后さまに組みする者たちが取り囲んでおります。暁嵐さまに謀反を起こすために」
暁嵐が頷いて、話の続きを促した。
「私が皇太后さまに合図すれば、皆この寝所を目がけて乗り込んで来る手筈になっております。その際は、皇后さまへの忠誠の証として、それぞれの家紋が描かれた旗を高く掲げているでしょう。彼らを一網打尽にすれば、宮廷に平穏をもたらすことができます」
暁嵐が凛風の肩を掴み、大きく息を吐く。
「わかった。話してくれてありがとう。後は俺に任せろ」
力強い言葉に、凛風は心底安堵する。
今宵は彼が皇太后一派を一掃できる絶好の機会。だが刺客だと明かしてもなお彼が凛風の話を信じてくれるかどうかだけが心配だったのだ。
この国が、己の心のままに生きられる世になると確信する。
――私は見られないけれど。
「凛風、皇太后への合図というのは?」
暁嵐からの問いかけに、凛風はこくりと喉を鳴らす。いよいよ、この時が来た。
自分を見つめる暁嵐の目を見つめ返すと、彼と自分の間に起こったことが頭の中を駆け巡る。幸せだったと確信して、凛風は口を開いた。
「――合図は、これです」
言うと同時に、素早く頭の簪を引き抜いて、握り直し一気に自分の喉を突く。鋭い衝撃を身体全体で受け止める。
「凛風!!」
驚愕の表情で暁嵐が叫んだ。
「この……簪が血を吸うと輝嵐さまが感じ取るよう術がかけてあります。……それを合図に……」
痛みは感じないけれど、簪が刺さった箇所が燃えるように熱くて、うまく声が出なかった。
身体の力が抜けて寝台に手をつくと、暁嵐の腕に抱かれる。
「どうしてこんなことを!!」
暁嵐の怒号が寝所に響く。こんなに怒りを露わにする彼ははじめてだ。彼の腕に身を預ける凛風の目尻から涙がつっと伝う。
「弟を……人質に取られています。今は皇太后さまのすぐそばに……。今宵私が失敗すれば、即座に処分されてしまう」
凛風は、暁嵐を選んだのだ。
この国のため民のためと言いながら、ただ愛する人に刃を向けられなかっただけなのかもしれない。
いずれにしても。
「ひとりで逝かせるわけには……いきません……。たい、せつな弟なのです。私の生きがいだった……」
「凛風……」
痛ましげに眉を寄せる暁嵐の服を、もうあまり力の入らない震える手で掴む。
「暁嵐さまは、私に……心をくださいました。私に、考える力をくださいました……。お、己の心のままに……生きら……」
苦しくてゴホッと咽せると、大量の血が口から溢れた。
「凛風! しゃべるな。今俺が……!」
凛風は被りを振って言葉を続ける。
「己の心のままに、生き……られる世を作って……もう、私みたいな者を出さぬ世を」
必死の形相で覗き込む暁嵐が霞んでいく。もう自分の声が出ているのかすらわからなかった。相変わらず痛みもなにも感じない。ただ暁嵐の声だけははっきりと聞こえた。
「凛風、わかった。約束する、約束するから、頼むからもう……」
その言葉に心底安堵して、凛風の体から力が抜ける。同時に世界は真っ黒な闇に閉ざされた。