雨上がりの後
雨上がりの後

「佐伯(さえき)さん?」


私に気づいた副社長の声と、近づいてくる足音が聞こえる。


「どうした、こんなところで」


私は、オフィスの最寄駅から程近いオープンテラスのあるカフェにいた。
小雨の降る中、傘もささずに外の席に座って。


「何かあった?」


私のすぐ目の前まで来た彼は、そう言って私を傘に入れた。


「・・・・」


仕方がない。
ずっと黙って俯いているわけにもいかず、私は心の中でため息をつきながら彼を見上げた。


「・・っ」


彼が息をのむ音が小さく聞こえる。

驚くだろう。
だって・・私は泣いていたのだから。
言葉を失くす彼に、私は再度俯いた。

このまま何も言わず、何も聞かずに立ち去ってくれればいい。
そう思っていた。

それなのに。

離れる気配がない。
なぜ・・?

もう一度、私は彼を見上げる。
ゆっくりと、彼のハンカチが私の頬にやわらかく触れた。


「どう‥して?」


思わず呟くと、彼は『ひとりにできないからだ』と言い、困ったような笑顔を浮かべる。


「何があったのかは後で聞く。とりあえずここを出よう。風邪をひいてしまう」


ハンカチをポケットに入れ、彼は私に手を差し出す。

導かれるようにその手に触れると、グイッとつかまれて引き寄せられ、同じ傘に収まった。
距離が近い時にだけ香ってくる、爽やかなグリーン系のフレグランスに心が揺れる。


「濡れたままじゃ、オフィスに戻れないだろう? 髪も乾かした方がいい。そう・・だな、近くに知り合いの店があるからそこに行こう」


彼は私の手をつかんだまま、人目につかないように裏通りを抜けた。


「ここだよ。話をしてくるから少しだけ待っていて」


そう言うと、彼は私に傘を持たせてショップに入って行く。
スレンダーな黒のドレスを着た女性と、親しげに話しているのが見えた。

笑顔のやわらかい、素敵な人だ。
それに引き換え私は・・。

ウィンドウに写る自分を、冷めた目で見つめる。

濡れたスーツに崩れたメイク。
泣いたせいで腫れぼったい目元。

とても、副社長の横には並び立てない。

高澤 遼介(たかざわ りょうすけ)。
私より3歳上の38歳。

新領域のプロジェクトをいくつも成功させ、その実績で若くして副社長にまで登り詰めた。

質の良いダークネイビーのスーツが映える、180センチの長身。
サラサラとした黒髪にすっきりとした眉・・。
CMでよく見かける俳優にも、面差しが似ている。

誰もが認めるイケメン・・だ。
あまりの違いに、虚しく苦笑する。

3分も経たずに、彼が戻ってきた。
そう・・素敵な女性と一緒に。


「佐伯さん、お待たせ。ここで着替えと、髪も乾かして。30分後に迎えにくるから‥‥じゃあ伽耶(かや)、頼んだよ」


そう言って、彼は私を残しショップを出て行った。
『伽耶』と呼んだ女性は、彼とどんな関係なのだろう。


「さぁ佐伯さん、早く着替えましょう。服は、もう選んであるの」

「えっ」

「遼介が選んでいったのよ」


遼介・・。
この女性は、簡単に彼の名前が呼べる人だ。
家族・・いや、奥さまだろうか。


「佐伯さん、靴のサイズ何センチかしら」

「23・・です」

「じゃあ、靴はこれね。一番奥の広いフィッティングルームを使って。中にドライヤーも置いてあるわ」


さぁ、と軽く背中を押されて、私は『フィッティングルーム』と掲示のある小部屋に向かった。

そこには、ハンガーに掛けられたネイビーのカシュクールワンピースと、少しラメの入った同系色のハイヒールが置いてある。


「はぁ・・どっちも高そうだなぁ」


プライスカードは既になく、とはいえ、ひと目見ただけで質の良さが分かった。
のろのろとワンピースに着替え、鏡の前に立つ。


「うそ・・」


驚くほどサイズがぴったりなのだ。
肩もバストも、ウエストラインも。

あ・・でも。
彼はデザインや色を指定しただけで、サイズはきっと女性が選んだんだろう。
それなら納得だ。

私はドライヤーで髪を整え、メイクを直す。
鏡越しに時計を見ると、もう17時近い。
今日はもう、このまま帰ろう。

私はスツールから立ち上がり、ハイヒールに足を通してもう一度鏡を見た。


「・・・・わぁ」


自分で言うのもどうかと思うけれど、普段の何倍も綺麗に見える。
フィットする洋服を纏うと、こうも洗練されて見えるのだろうか。

163センチの身長にハイヒールを合わせているから、縦のラインも際立っている。

少しふわりとしたロングヘアも悪くない。
疲れているはずの表情も、心なしか明るくなった。

それより。
問題は支払いだ・・。
カードで買うとはいえ、請求が怖い。

ふぅ。
ため息とともにフィッティングルームを出た。


「やっぱり・・よく似合うよ。サイズも見立て通りだ」


彼はフィッティングルームの前にあるソファから立ち上がり、私の横に立つ。


「えっ・・・・どう・・して」

「30分後に迎えにくる・・って、言ったよね」


そういえば、そんなことを言っていたかもしれない。
不思議そうな私に、彼が苦笑している。


「あ・・もう大丈夫です。駅も近いですし、ひとりで帰れますから」


私はバッグから財布を取り出し、『支払いをしたい』と言うと女性は首を横に振った。


「遼介にもらってるからいいのよ」

「そんな・・でも・・」


『本当にいいのよ』と微笑んで、女性は別の顧客のもとに立ち去った。
支払いは不要・・と言われても、困ってしまう。


「あの・・副社長・・」

「ん?」

「どうして・・」

「さっきから『どうして』ばかりだな」


フッと目を細めて笑う彼に、視線が惹きつけられる。
距離を詰めてきた彼が、耳元で囁いた。


「ひとりにできない、後で話を聞く・・って言っただろ?」


顔が離れていく途中で。
彼の唇が、ほんの少し私の頬を掠めていった。


「・・っ」


驚いて彼を見上げる。
わざと・・やっているの?


「佐伯さんを振った男は、僕の知人だ。
『美沙(みさ)は一人でも大丈夫な強い女性だから、俺じゃなくても構わない』とか・・そんなようなことをあいつは言ったんだろう?」


目を閉じると、昨晩のシチュエーションが苦しく蘇る。
自立した女性は好きだけれど、妻にするならもう少し控えめな方が好みなのだ・・と。

私は何も言い返せなかった。

翌朝・・つまり今朝から、経営陣相手の重要な会議が予定されていて。
自分を曝け出してぶつかった後の感情の揺れが、絶対に仕事に影響すると分かっていたから、敢えてその場では自分を抑えたというのもあった。

私の意識は、常に仕事に向いていて。
それも事実で、改めて自分に呆れる。

仕事に打ち込めば打ち込むほど、相手の男性が離れていくのだ。
分かっているのに、どうにもできなくて。

けれど、消化しきれない思いは心の中に留まり、午前の会議を終え、午後の来客対応を済ませて見送りに出たタイミングで、糸が切れたようにフラフラとカフェに足が向いてしまった。


「でも・・さ」

「・・はい」

「僕はそれを聞いて、ついにチャンスが訪れたと思った」


えっ?
困惑する私に、彼が表情を緩める。


「佐伯さんを僕の管掌下に呼び寄せたのは、もちろん部長としての実力もあるけれど、職権濫用だな。
ま、簡単にいうと、近くにいて僕をもっと知ってもらいたかったわけ。たとえ、仕事上の関係だけだとしてもね。
万が一・・ってことが、あるかもしれないからさ」

「・・あの、仰っている意味が・・・・」


それって・・。
つまり・・。
もしかしたら・・。

でも・・彼が『伽耶』と親しげに呼ぶ、あの女性は?


「お話中ごめんなさいね。遼介、私そろそろ出るから」

「ああ、また連絡する」

「それじゃあ・・・・佐伯さん、また遼介と一緒にお買い物にいらしてね」


状況がよく飲み込めない私は、呆然と女性の後ろ姿を見送った。
彼の、愛する女性ではないの?


「さぁ、僕らも出ようか。クルマを表に停めてあるんだ。少し走らせて食事に行こう」


スッと肩を引き寄せられると、再びグリーンの香りに包まれる。

このまま・・抱きしめられたい・・。

彼とショップを出ると、もう雨は止んでいて。
路肩に白いスポーツカーが停めてあり、彼が助手席のドアを開けてくれた。


「どうぞ、乗って」

「・・失礼します」


ドアを閉め、彼は運転席に回ってクルマに乗り込む。
私がシートベルトを締めるのを確かめてから、彼のクルマはゆっくりと動き出した。


「さぁ、行こうか。佐伯さんの話も聞くつもりだし、僕のことも話したい」


そう言うと、彼はステアリングを操作しながら私の方を見る。


「・・はい」


彼の香りに包まれたクルマの中で、これから、何が起こるのだろうと期待してしまう。

そっと見た運転席の横顔に、胸が切なく高鳴った。


「そんなに見るなよ。嬉しすぎて・・今夜は眠れなくなるだろ?」



〜 fin 〜


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