さて、このたびの離縁につきましては。

9

 楪は懐に手を入れると、煙管を取り出した。火をつけながら、ちらりと挑発的な視線を妖狐に向ける。
「大人しく魂を返せば、ペットとして可愛がってやらないこともないのに、残念だな」
 妖狐の眉間がひくりと動いた。
「貴様……」
 妖狐は鼻の頭に皺を寄せ、恐ろしい形相で楪を睨んでいる。
 凄まじい目力に、睡蓮は肩を竦めた。一方で楪は、呑気に煙管を蒸かしている。
 ふぅっと息を吐くたび、楪の唇から零れた銀青色の煙がみるみる灰色だった周囲を塗り替えていく。
「すごい……」
 枯れていた草花が、見る間に元の色に戻っていく。どうやら、楪が吐く息の力のようだった。
 一面に漂っていた死の気配は消え、代わりにみずみずしい植物たちの気配でいっぱいになる。
「ほら。もう花は息を吹き返したぞ。大した自信だったようだが、口ほどにもなかったな」
 妖狐が唸る。
「小僧が生意気を語るなぁっ!!」
 妖狐が飛び上がると同時に、楪は睡蓮を強く抱き寄せた。
「睡蓮さま、少しだけ我慢してくださいね」
「わっ……」
 楪と身体が再び密着する。小さく震えている睡蓮に気付いたのか、楪は睡蓮に口を寄せ、優しく言った。
「大丈夫だから」
 楪のたったひとことで不思議と恐怖は消え、震えが止まる。
「はい」
 睡蓮は頷き、じっと楪に張り付く。
「目眩しのつもりか? こんなもの、千里眼を持つわたしにはなんの意味もないぞ!」
 地鳴りのような咆哮が、凄まじい勢いでふたりの元へ向かってくる。
 桃李が刀を構えた。
 視界は不明瞭だが、妖狐が地を蹴る音がものすごい勢いで近づいてくる。
 まずい、と思ったときにはもうすぐ目の前で妖狐が大きな口を開け、睡蓮たちに襲いかかっていた。
 その刹那。
 ピン、と強い光が一瞬、睡蓮たちの周囲を包んだ。
「ギャンッ!」
 悲鳴が聞こえた。おそるおそる目を開けると、睡蓮の目の前に小さな小狐がいた。綺麗な毛並みの、ほんの猫ほどの小狐だ。
「えっ?」
 思わず可愛い、と呟く睡蓮。
 ぺたっと地面に張り付いていた小狐は、むくっと起き上がると、
「貴様、よくも! わたしの力を返せ!!」
 と、叫んだ。声が異様に高く、やかましいだけでさっきまでの迫力はまるでない。
「なにがわたしの力、だ。ひとを喰らわなければ妖狐の姿すら維持できないくせに」
「黙れこのやろー!!」
 小狐は小さく唸りながら再び楪に飛びかかってくる。楪はそれをハエでも叩き落とすようにぺっと弾くと、冷ややかに言った。
「さて。覚悟はできているよな?」
 楪の瞳が淡く発光し――耳をつんざくほどの大きな爆発音が響いた。
「ギャァァア!!」
 小狐が悲鳴を上げる。
 突然の爆発音と小狐の悲鳴に、睡蓮は反射的に強く目を瞑る。
 空から降った落雷が、妖狐を直撃したのだった。
 ほどなくして音が止み、周囲に静けさが戻ると、睡蓮はようやく目を開けた。
 目の前にあるのは、焼け焦げた地面とぼろ雑巾のようになった小狐だった。小狐は力尽きたのか、地面に伏せたまま荒い息をしていた。
「くそっ……貴様のような人間ごときにわたしが屈するなんて……くそっ、くそっ!」
 喚く小狐に楪はゆっくりと歩み寄り、低い声で言う。
「もう一度言う。死にたくなければ、今すぐ睡蓮に魂を返せ」
 小狐は楪を見上げ、鼻で笑った。
「断る」
 楪はやれやれとため息をついた。
「……そうか。なら力ずくで返してもらう」
 楪の瞳が青白く光る。
 大地が唸り、なにもなかった地面に旋風が巻き起こる。旋風の中心から水が吹き出し、その水は束となって容赦なく小狐を覆っていった。
「なっ……なんだこれは!」
 怯んだ小狐に、楪はゆっくりと近付き、煙管の煙を吹きかけた。
 その刹那。
 パキッと音がした。
 見ると、小狐が氷漬けになっている。楪の吐息が引き金となり、小狐を覆っていた水の粒子が凝結したのだ。
 氷漬けにされぴくりともしない小狐に、睡蓮はだんだん不安を募らせた。
 もしかして、楪はこの小狐を殺してしまうつもりなのだろうかと。
「あ、あの楪さま……彼はどうなってしまうのですか? もしかして……」
「大丈夫、あなたの魂と不必要な力を奪ったら、術は解きますよ」
 睡蓮の言いたいことを察した楪は、優しく微笑んだ。小狐へ手を翳し、手のひらをくるりと翻し、見えない糸でも引くように手を自身の胸へと引き寄せた。
 小狐の胸辺りから、すうっとなにか白いものが揺らめきながら現れた。
 目を凝らして見ると、それは花だった。
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