さて、このたびの離縁につきましては。

10

 薄紅色をしたきれいな椿だ。現れた椿は、まるで花自身に意思でもあるかのように、まっすぐ睡蓮のもとへとやってきた。
 睡蓮は椿をそっと両手で包む。花はそのまま胸へと吸い込まれていった。花が消えた瞬間、睡蓮はじぶんの身体がふわりと軽くなるのを感じた。
「なんだか……身体が軽くなったような」
 睡蓮の言葉に、楪がほっとしたように笑う。
「よかった。無事、ちゃんと魂が戻ったようですね」
「……あの、楪さま」
 睡蓮は氷漬けにされた小狐から楪へ目を向け、目で訴える。
「……俺の花嫁を騙し、魂を喰らおうとした罪は重い。本来なら再び溶岩に閉じ込めたいところなのだが……」
 睡蓮の顔を見て、楪は苦笑する。
「……それは望んでいないようですね」
「私……どうしても嫌いになれないんです。彼は、私が孤独だったとき、たったひとりそばにいてくれました。もちろんそれは、私を欺くための演技だったのかもしれません。でも……楽しかったから」
 複雑な顔をする楪の向こうで、氷漬けにされたままの小狐の瞳がきらりと光る。
 また術を使うのかと楪は身構えた。……が、そうではなかった。小狐は涙を流していた。
 楪はわずかに目をみはる。
「……あなたは、すごいな。千年を生きる妖狐の心まで奪ってしまうなんて」
 楪はやれやれと肩を竦めて、小狐の身動きを封じていた氷に息を吹きかけた。たちまち、氷は銀青色の煙と化して溶けていく。
 術を解かれた小狐はその場にごろりと崩れ落ちた。
「力は奪いました。もう悪さはできないでしょう。彼女に感謝するんだな」
 楪は後半、小狐に向けて言った。
 睡蓮が小狐に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
 小狐は肩で息をしながら「あぁ」と漏らす。
「……お前は正真正銘の馬鹿だな。わたしはお前を殺そうとしたんだぞ。それなのに……助けるなんて」
 小狐はときおり苦しげに息を吐きながら言った。
「ふふ……ですね。でも私、まだ死んでませんし」
 控えめに微笑んだ睡蓮から小狐は目を逸らし、ぽつりと言った。
「……変な娘だ」
 小狐はそう吐き捨てると後方に飛び上がり、ふたりから距離を取った。
「とにかく、魂は返したからな!」
「……はい」
「さっさと失せろ」
 楪が冷ややかに言う。
「フン。言われなくとも」
 小狐の憎々しげな視線に、睡蓮は少し寂しさを覚えた。小狐が立ち去るのを見守っていると、不意に小狐が振り返った。
「おい、娘」
 睡蓮は顔を上げ、首を傾げて小狐を見た。
「お前も共に来るか」
「えっ!?」
 小狐の言葉に睡蓮は驚き、瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「お前も分かっているだろう。その男は、ひともあやかしも、身内ですら信用しない。そんな男といても幸せにはなれないだろう。だが、わたしは違う。わたしはお前を気に入った」
 すかさず楪が睡蓮の前に立つ。
「おい。どさくさに紛れてなにひとの花嫁を口説いている?」
「お前らはもう離縁しているだろうが。お前に責められるいわれはない」
「それは……」
 ぴしゃりと言い返され、楪は言葉につまる。苦い顔をする楪と小狐を交互に見比べ、睡蓮は俯いた。
「そうですね……私は、楪さまとはもう他人なのでした」
 悲しいけれど。
 呟いた睡蓮と楪の間を、風が吹き抜けていく。
 風は地面に落ちた銀杏の葉を巻き上げ、睡蓮の視界を鮮やかな黄色に染め上げた。
「娘、わたしと共に行こう。土地に縛られず、自由に生きるのだ。わたしと、ふたりで」
 小狐は再び睡蓮に近付き、誘う。
「…………」
 睡蓮は少しの間を空けてから、小狐を見てはっきりと告げる。
「……ごめんなさい。素敵なお誘いですが、あなたと一緒に行くことはできません」
「……なぜだ?」
「私には、どうしても忘れられないひとがいるんです」
 そう言って、睡蓮は楪を見た。
「私は……もう死ぬと思っていました。だからぜんぶ、諦めてたんですけど……でも」
 生きられると分かった今、睡蓮の中の楪への思いはさらに大きくなっていた。
 生きることが許されるのならば、もう少し楪を想っていたい。
 桔梗が楪だと知った今、さらにその思いは強くなっていった。
「……フン。つまらん」
 小狐は興味は失せたとばかりに睡蓮に背を向けた。
「あっ……待って!」
 再び歩き出そうとする小狐の背中に、睡蓮は呼びかける。
 呼び止められた小狐は一瞬動きを止め、振り返らないまま答えた。
「なんだ?」
「……あなたの、本当の名前はなんて言うの?」
「…………幽雪(ゆうせつ)だ」
 幽雪はわずかに顔を睡蓮の方へ向け、言った。
「幽雪さん。ひとりぼっちだった私の話し相手になってくれてありがとう」
 幽雪の耳がぴくりと動く。
「幽雪さん。あなたは――私の友達よ。あなたがそう思っていなくても、私はずっとそう思っています。……お元気で」
 幽雪はなにも答えない。ただ、前を向く直前、頷くようにひとつだけ瞬きをした。
 そして――幽雪はその場に仄かな煙を残し、消えた。
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