失くしたあなたの物語、ここにあります
 いいうわさも悪いうわさも、この辺りではあっという間に広がる。そんなこと、よく知っていたじゃないか。どうして今まで気づかなかったのだろう。

 隣家へのあいさつを後回しにしていたのは失敗だ。明日からはおばさんにも愛想よくしなくちゃ。

 まろう堂の店主さんはお人好しそうな好青年だから、彼を味方にしておけば、悪いうわさがあっても擁護してくれそうだし、ご近所さんからの詮索の目をそらせるかもしれないと、沙代子は打算的に思う。

 父の死を境にずっと寄り付かなかった自宅に戻ってきた27歳無職の娘なんて、井戸端会議の話題にはもってこいだろう。

「それで、わざわざ。銀一の娘で、葵沙代子って言います。よろしくお願いします」

 沙代子は早速、愛想よく応じることにした。

「うん、よろしく。この辺りのことはだいたい把握してるから、わからないことがあれば、遠慮なく聞いてくれていいから」

 先輩風を嫌味なく吹かすまろう堂の店主さんはきっと、お世話になったという父への恩返しを兼ねて、沙代子の力になれたらと純粋な気持ちでやってきたのだろう。

「早速だけど、聞いてもいい?」
「どうぞ」

 もう一つ、沙代子には気にかかることがあった。この青年は知ってるんだろうか。15年前、ひそやかに広まった葵家のうわさを。

 あれはもう時効だろうか。まだ幼かった沙代子にはどうすることもできなかったが、時効であってほしいと願う気持ちが沙代子にはある。

「天草さんはずっと鶴川に住んでるの?」
「ずっとって言うか、中学2年のときに農園の方へ引っ越してきたから、15年になるかな」
「えっ、15年?」
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