失くしたあなたの物語、ここにあります
 家族……。そう呼べる関係が築けていただろうか。もしかしたら、天草さんの方が家族らしい交流があったかもしれないのに。

「父は天草さんに会いたいと思う」
「それならうれしいけど。あー、どうしようかな。もう遅いから、改めておじゃまさせてもらいます。いい匂いがするから、お腹すいて来ちゃったし」

 月の浮かぶ夜空を見上げて、天草さんはお腹に手を当てておどける。

 銀一の娘が夜遅くに男の人を部屋に招き入れていた、なんてうわさが立つといけないって気にしてくれたのかもしれない。

「いい匂いって……、あっ、ビーフシチューの匂い?」
「そうそう、ビーフシチューだ。葵さんも、これからごはんだった?」
「ちょうど煮込んでたの」
「じゃあ、食べごろだ」
「天草さんは実家暮らし?」
「今はカフェの二階でひとり暮らし」
「ビーフシチュー食べる? 持って帰れるようにすぐに包むから」
「小鍋に入れてくれたらうれしいかも」

 ずうずうしいお願いをさらりと言う憎めない彼は、甘え上手なのだろうと思う。

 沙代子は誰かを頼るのが苦手だった。頼らせてくれない母に育てられたからか、持って生まれた気質なのか。甘え上手な人を見るたびに羨ましく思うこともあった。

『沙代子はひとりでやれるよ』

 褒め言葉のようでそうではない、沙代子を突き放した別れた恋人の言葉は今も忘れられないでいる。

 天草さんのように生きられたら、恋を失わずにすんだのだろうか。

 今さら、考えたって仕方ない。沙代子は「待っててっ」と天草さんに言い置いて、リビングへと駆け戻った。
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