失くしたあなたの物語、ここにあります
 なんだろう。得体の知れない胸騒ぎがして、裏口へ回ると、急いでポーチから鍵を取り出し、鉄製の扉を開けた。

「あ……っ」

 沙代子は驚きの声を上げた。

 まほろば書房の店内はもぬけの殻だった。ところ狭しと並んだ本棚や、天井高くまで積み上げられた古書、手づくりの木製カウンター、愛用していたロッキングチェアーも、何もかもすべてない。

 いつからだろう。いつから、父はまほろば書房を閉めようと考えていたのだろう。

 生きがいにしていた古本屋を閉めた。それには何か事情があったはずだ。

 なぜ、気づいてあげられなかったのだろうと、何も気取らせなかった父に対する申し訳なさを感じながら、沙代子は店内へ一歩踏み込む。

「こんなに広かったんだ」

 ぎっしり古本のつまっていた店内を、何もない状態でじっくりと眺めるのは初めてだった。

 沙代子はひんやりとしたコンクリート壁に手をつく。

 ここには本棚があった。今はまろう堂にある、沙代子がらくがきを描いた、あの本棚だ。

 その隣で、父はいつもロッキングチェアーに座っていた。特にお気に入りの古本をあの本棚に入れていたと思う。

 小さな沙代子は床に座り込んで、本棚の下の方にらくがきをした。らくがきをしたのは、一度きり。あの後、父がスケッチブックを買ってくれて、それが沙代子のキャンバスになったからだ。

「お父さん、どうして本棚を……本を手放したの?」

 むなしく空を切る沙代子の問いに、あたりまえだが返事はない。

 なぜ、あんなに大切にしていたものを手放せたのか。沙代子にも大切なものはあったが、望んで捨てたものは何もない。

 もう父とは話せない。あらためて突きつけられた現実にくじけそうになる。

 仕事も恋も、家族さえも、全部なくなってしまった。今の沙代子にはもう、本当に何もないのだ。
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