失くしたあなたの物語、ここにあります
 沙代子はまほろば書房をあとにすると、自宅へと向かった。

 早朝に家を出たのは、なるべく人に会わないようにするためだったが、帰ってくる頃にはゴミ出しに出てくるご近所さんの何人かと鉢合わせしてしまった。

 気を張って世間話する気力はなかったが、沙代子に興味津々のご婦人たちの心証を悪くしない程度には、明るいあいさつで詮索を回避した。ようやくひときわ目立つ洋館の丸窓が見えるところまでやってきたときだった。

「あれっ? 葵さん」

 後ろから声をかけられた。振り返ると、天草さんが手を振っている。

「天草さんっ、どうしたの?」
「葵さんこそ、朝早いね。ジョギング? いま、葵さんちへ行くところだったんだ」

 あきらかにジョギングするような身なりじゃない沙代子をからかって、彼は百貨店の紙袋を持ち上げてみせる。

「借りてた鍋、返そうと思って」
「あっ、わざわざ? またカフェに行ったときに返してもらえばいいって思ってたの」

 紙袋を両手で受け取って、中をのぞき込む。ビーフシチューを分けた赤い小鍋が入っている。

「おいしかったよ。葵さんって、パティシエなんだよね? 料理上手なパティシエだね」

 当てた俺の勘はすごいでしょ、と天草さんはほこらしげに笑う。

 そういえば、まろう堂の客として出会ったとき、パティシエなのかと尋ねられたんだった。

「よくわかったね」
「初めて来店した日、覚えてる? ハーブティーよりケーキを熱心に見てたんだ。何かメモってたし、二つも食べていったから」
「えっ! そうだっけ?」
「そうだよ」

 とぼける沙代子を見て、天草さんはにやにやしている。
< 15 / 211 >

この作品をシェア

pagetop