失くしたあなたの物語、ここにあります
「そう。悠馬も知ってるでしょ? お父さんがやってたまほろば書房を改装しようと思ってる」
「姉さんって、つくづく苦労人気質だと思う」
「葵銀一の娘であることには後悔がないから。悠馬、あなただって……」

 そう言いかける言葉をさえぎるように、悠馬が口を開く。

「母さん、再婚するんだって」
「えっ、再婚?」

 初耳で、沙代子は驚く。

「姉さんも知ってる人」
「もしかして、牛込(うしごめ)のおじさん?」

 すぐにその名前と穏やかな笑顔のおじさんが浮かんだ。

 牛込さんは祖母の知り合いの息子さんで、ぶどう農家を営んでいる。祖母が牛込さんのところのぶどうしか食べないから、沙代子も連れられてよく買いに行った。

 彼は母と同い年の男の人で、沙代子が中学生のときに妻を亡くしていて、子どももいない。

 沙代子がパティシエになる道を決めたときは、ぶどうを使った美味しいケーキのレシピを惜しげもなく教えてくれた。それが、沙代子のパティシエとしての礎にもなっているし、父が不在の葵家を助けてくれていたから感謝もしている。

「銀さんが亡くなって、母さんが心配になったらしいよ」
「そっか」
「姉さんは反対しないの?」
「してほしいの?」

 牛込のおじさんは悠馬の遊び相手になってくれたりと、ずいぶんと彼を可愛がってくれていた。銀一よりも父らしいおじさんだったように思う。

「別に。俺はどっちでもいい」
「それは私もよ。お母さんがどうしようと、今さらじゃない」
「それもそうだね。姉さんがいいなら、俺もそれでいい」

 悠馬は穏やかな口調で、そっとつぶやく。

 まだまだ多感な時期の彼の胸中は沙代子にはわからないし、どうすることもできない。こんなときは、父がいてくれたらいいのに、そう思うけれど、その父の存在さえも、彼が必要としているのかわからなかった。
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