失くしたあなたの物語、ここにあります
 独立の夢の一部は、別れた恋人の夢でもあった。

 彼は沙代子の知人がオーナーをつとめるレストランで働く腕のいいパティシエだった。彼の作るデザートはどれも芸術的で、沙代子は彼のファンだった。

 彼のファンはほかにもたくさんいただろうけれど、オーナーを通じてデザートの感想を伝えるうち、彼の方からデートのお誘いがあった。

 何度かデートを重ね、お付き合いを始めると、彼はいつか自分の店を持ちたいのだと夢を語ってくれるようになった。その夢を聞くうちに、沙代子も独立したいと思うようになった。彼となら一緒にやれると思った。

 不動産を複数所有する父に相談してみようと思ったのは、彼が出店地を決めかねていたからだった。

 父に電話したのは、何年ぶりだっただろう。はたちまでは毎年会っていたけれど、就職してからはなかなか会えないでいた。そうしているうちに恋人ができて、父とは疎遠になっていた。

 それなのに父は、独立の話を真剣に聞いてくれた。いつでも応援してるよ。彼を連れて一度帰っておいで。そう言ってくれたのに、それは実現できなかった。

 今となっては、別れた恋人を父に会わせなくてよかったのだと思う。

 店舗資金は父の援助が受けられると決まり、開業準備に専念するため、長く勤めたパティスリーも辞めた。そして、店舗のデザインや工事費用、厨房の設備など、具体的な構想が出来上がったころ、沙代子は彼から別れを告げられたのだった。

『沙代子はひとりでやれるよ』

 それが別れの言葉だと知ったのは、彼に新しい恋人ができたらしいとうわさを聞いたときだった。

 一年近い月日をかけて、独立の準備を進めてきた。あとは出店地を決めるだけだった。いくつか候補があったのに、なかなか彼が納得しなかったのは、いつの頃からか別れを意識していたからだったのだろう。
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