失くしたあなたの物語、ここにあります
 それでも沙代子は、パティスリーをオープンさせたいと意気込んだ。独立は彼のためじゃない。そう信じていたからだった。

 そして、父に連絡を入れなきゃいけないと思っていた矢先、父が入院したと母から電話があった。

 お見舞いに向かう途中、容体が急変し、父はその日の夜にこの世を去った。葬儀の準備に奔走する中、仲間のパティシエから、『あいつ、結婚したよ。彼女の援助で、パティスリーのオーナーになるんだって』と別れた恋人の近況を知らせる連絡が来た。

 沙代子はぼう然とした。ショックというよりは、心がぽっきりと折れてしまった感覚に近かった。

 パティスリーを持ちたいという彼の夢は、違う形で叶った。新しい恋人は、全国的に有名なパティスリーチェーンの娘で、結婚と同時に彼が店長として就任する新店舗のオープンも明らかになった。

 いつからてんびんにかけられていたのかわからないし、知りたくもない。一つ思うのは、沙代子の夢見たパティスリーと、彼が思い描くパティスリーのイメージがまったく異なっていたんじゃないか。それだけだった。

 そうして沙代子は、逃げるようにこの町へやってきた。

 今はもう、夢を一緒に叶えるはずだった恋人も父もいない。沙代子の夢は泡のように消えてしまったのだった。

「ちょっと立ち止まってみるのも悪くないかなと思って」

 無言の天草さんに申し訳なくなって、笑顔でそう言うと、彼もあんどしたように柔らかく笑む。

「そうだね。独立してもしなくても、葵さんのタイミングでいいんだと思う」

 天草さんは優しい。転んでも、ゆっくりでいいから起き上がって、また走り出せばいいって言ってくれる。

「本を、見せてもらっていい?」
「いいよ。懐かしい本があるかもしれないね」

 そう言うと、天草さんは「すぐにご用意しますね」とキッチンへ入っていった。
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