失くしたあなたの物語、ここにあります
 この世には無数の本があって、出会えない本もある中、出会ったことには意味があるんじゃないか。

 沙代子はそう思いながら、小説を手に取る。

 それは、陸上競技に青春を注ぐ少女、若菜(わかな)と、彼女に片想いする少年、(そら)のお話。高校3年生の若菜は陸上部のエース。空はマネージャー。空は高2の時に足に大けがを負い、マネージャーとして部に残っていた。まばゆいまでに活躍する若菜に、空は嫉妬と憧憬の念を持っていて……。

 ふたりがどんな恋をするのか沙代子には興味があったが、小説は開かずにカウンターの上に置いた。きっと、菜七子さんと村瀬さんの恋が、その答えのような気がしたのだ。

「買っていかなかったね」

 グラスに水を注ぎながら、天草さんがそう言う。その視線の先には、空の鼓動がある。

「菜七子さんが探してた空の鼓動ではなかったのかも」

 彼女が探していたのは、『村瀬さんから借りた空の鼓動』だから。

「菜七子さんを待ってたんじゃなかったのかな」

 天草さんが本を手に取ってそう言うから、本が見つけてくれるのを待ってるって話、真に受けてるのかなと思う。

「菜七子さんじゃなきゃ、誰を待ってるんだろうね」

 村瀬さん? でも、村瀬さんは本に未練はないようだったけれど。

「菜七子さん、また来るかな」

 ぽつりとつぶやくと、本棚に空の鼓動を戻した天草さんは、「来るといいね」と店の外へと目を向けた。
< 35 / 211 >

この作品をシェア

pagetop