失くしたあなたの物語、ここにあります
 無我夢中で走り続けて、自宅の玄関に飛び込むと、ようやくカバンを抱きしめて息を整えた。気持ちを落ち着けてカバンの中をのぞくと、青い表紙が見えた。途端に、自分のしたことが怖くなった。

 それから1週間、息を詰めて過ごした。しかし、どんな騒ぎも起こらなかった。

 菜七子はいつものように村瀬くんと仲良くおしゃべりしていた。睦子はますます面白くなかった。

 自宅に帰ると、ちょうど母が本を売りに行くと言って、小説のつまった紙袋を玄関に出していた。

「お母さん、私の小説も売ってきてもらっていい?」
「なに睦子、小説好きだった? お母さんが読みなさい読みなさいって言っても、全然読まなかったのに」

 小言を言う母に苦笑いしながら、「紙袋に入れておくね」って、青い表紙の本を一番上に乗せた。『空の鼓動』というタイトルの小説だということは、このとき初めて知った。

 自分のしでかした悪事を後悔するどころか、自分だけが悩んでるのが腹立たしくて、本を手放せば、何もなかったことになると思った。

 ベッドに転がって雑誌を読んでいると、玄関ドアの開く音がした。母が帰ってきたのだろう。廊下を歩く足音が、キッチンではなく、睦子の部屋の方へ近付いてくる。

 何かあったんだろうか。不安になって部屋から顔を出すと、母が『はい』と、奇妙な表情をしながら10円玉を差し出してきた。小説は10円になったみたいだった。

「ありがと」

 なんでそんな変な顔してるんだろうと思いつつ、短く礼を言って、さっさと部屋に戻ろうとすると、母が「睦子、待って」と声をかけてきた。

「なに?」
「まほろば書房の店主さんがね、睦子の本に紙が入ってたって」
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