失くしたあなたの物語、ここにあります


 鶴川(つるかわ)城のメインストリートに交差する通りのはずれにあるまろう堂を一歩出ると、昔ながらの長屋が目に飛び込んでくる。

 住宅のあった長屋を改装してオープンしたのだろうまろう堂は、ここが観光地であることを忘れてしまいそうになるほど閑静な場所にある。この通りで店を開いているのはまろう堂ぐらいのものだ。

 沙代子がまろう堂を見つけたのは、幸運であったとしか言えない。

 立て看板がなければ、カフェだということを見落としてしまう店がまえの上、その立て看板さえも、気づいた人だけ来店すればいいと思っているような控えめなもの。

 店主からハーブ園を経営していると聞いて、そちらが本業なのだろうと、妙に納得してしまった。ひとりで経営していると言っていたし、あまり騒ぎになってほしくないカフェなのだろう。

 それは、ひとりでゆったりと過ごせる環境を欲していた沙代子にとって好都合だった。いい隠れ家を見つけた。また来よう。父の本棚のことはまたそのときに聞けばいい。

 沙代子はメインストリートに背を向けて歩き出す。

 駅からこちらへ向かってくる観光客らしき若い女性たちとすれ違った。まろう堂に気づかず通り過ぎていく彼女たちを見送るように眺めたあと、脇道を進んだ。

 細い小道に入るとひと気がなくなり、生活感が漂い始める。軒先に咲くペチュニア、塀の奥に見える物干し竿、収集を待つゴミ袋、そのどれもがなじみのある風景なのに、まだ沙代子は慣れないでいる。

 ここへ来て、まだ数日。なじめないのは当然だ。小学時代まで過ごしたこの町は、大人になった沙代子を客人のように扱っている。ずっとこの町で暮らしていたら、違う人生があったんじゃないかと、誰に向けるでもないむなしさが込み上げてくる。
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