失くしたあなたの物語、ここにあります
「それがまだ。翔は今さら急かさないよって言ってくれたけど、これからします。この栞にプロポーズの返事を書いて、翔に渡します」
「それは、村瀬さんもびっくりしますね」
「笑うかな。でもきっと、喜んでくれると思います。翔は優しいから、全部わかってくれると思う」
「菜七子さんが選んだ方だものね」

 そう言うと、彼女は華やかに微笑んで、ようやくキッチンから姿を現す天草さんに声をかける。

「空の鼓動、まだありますか?」
「もちろん、あります」

 天草さんは予約済の箱から空の鼓動を取り出すと、そっとカウンターの上に乗せる。

「私、ずっと空の鼓動と、この栞を探してたの」
「うん」

 菜七子さんはきっと、村瀬さんが貸してくれたままの本をずっと探してた。

 丁寧に栞を本の中ほどにはさみこみ、彼女は胸にそっと抱きしめる。

「この本、ください」

 菜七子さんは軽やかな足取りでまろう堂をあとにする。

 城下町の石畳みを駆けていく、ふわりと揺れる菜七子さんのスカートの裾が楽しげで、幸せな花嫁姿の彼女がまぶたに浮かぶ。

 そんな彼女の手には、今日の澄み切った空と同じ、空色の本がしっかりと握られている。

 父が古本屋をやめなかった理由がわかる気がした。その父の思いを、天草さんはこれからも守り続けてくれるのだろう。

「ねぇ、葵さん。あの話、本当だったね」

 いつまでも菜七子さんが立ち去った方角を見つめる沙代子に、天草さんが声をかける。

「あの話って、本が待っててくれるって話?」
「そう。あの本が待ってたのは、栞のラブレターだったね」

 だから、菜七子さんは最初、空の鼓動を買っていかなかった。

「私もそう思う。菜七子さんの元に戻るために必要なものだったんだね」

 あるべき人のところへあるべき形で戻るため、古本は父の本棚でそのときが来るのを待っているのだろう。

「私を待っててくれる本もあるのかな」

 沙代子が晴れやかな笑顔でそう言うと、天草さんは、「あるといいね」と春の風のように穏やかに微笑んだ。





【第一話 栞のラブレター 完】
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