失くしたあなたの物語、ここにあります
 15年前、母は沙代子を連れてこの街を出た。天草さん一家が引っ越してきたのも、ちょうど同じころ。しかし、母と知り合いだったお母さんはきっと、母がなぜ家を出たのか知っているのだろう。

「優美ちゃんの話は祖母から聞いてるわ。沙代子ちゃんも大変だったでしょう。優美ちゃんと銀一さん、おしどり夫婦って言われるぐらい仲良かったのに、残念ね」
「そうですね。けんかしてるところは見たことがなかったので、別居するって決まったときはびっくりしたんです」

 両親は10歳ほど歳が離れていて、父はいつも母を甘やかしていた。けんかになるはずのない毎日を送っていた。その刺激のない日々が、もしかしたら別居につながる原因を作ったのかもしれないと思うことがある。

「でも、離婚しなかったんだもの。お互いに元に戻れると思ってたんじゃないかしら」

 お互いにだなんて、そんなはずはない。沙代子はそれを知っていたが、そう言ってくれるお母さんの優しさを笑顔で受け止めた。

「あっ、こんな話、嫌よね。ごめんなさいね。沙代子ちゃんのお話、聞かせて。今は銀一さんの家に住んでるのよね」

 そう言いながら、座るところ用意するわね、とカウンター内に入っていくお母さんについていきながら、沙代子は振り返る。

 まだ天草さんは入り口からこちらを見ていた。今の話、聞こえただろうか。15年も交流を持たず、かといって離婚もせず、今日まで過ごしてきた母を彼はどう思っただろう。そして、その母の娘である自分はどう見えているのだろう。

 彼はわずかに険しい表情をしていたが、沙代子が「いってらっしゃい」と手を振ると、ほんの少し笑顔を見せて、今度こそ店を出ていった。
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