失くしたあなたの物語、ここにあります
 彼はそうなることがわかっていたみたいに、穏やかに微笑む。

「まろう堂で出してもらえるようにがんばるね」
「大丈夫だよ、葵さんなら。レパートリーが増えるかもしれないね」
「上手にできたら、ずっとここで働けるかな?」
「パティスリーの夢は? 別にうちのことは気にしなくていいからさ、やりたい時にやりたいことをやったらいいと思うよ」
「あ……、うん。そうだね」

 天草農園で働くことが今やりたいことで、できたら続けていきたいことだったけれど、さっきまで臆病にかまえていたのに、まだ働いてもないうちから意気込んだりして恥ずかしいと、沙代子はそれ以上は言えずに照れ笑いを浮かべた。

「俺は葵さんが夢を叶えてほしいと思うよ」

 そう言ってくれるのは、彼の優しさだ。

 天草さんの夢は、まろう堂を続けることだろうか。それとも別に、叶えたい夢があるだろうか。

「天草さんもいつかは結婚して、ここを継ぐんだよね」

 そうなったとき、沙代子はここを出ていかなきゃいけなくなるだろう。自分の存在を認めてくれる居場所を、これから先もずっと探し続けていくのだ。

「そういうのはまだ考えたこともないけど、まろう堂はやめないよ」

 やけに力強い言葉に、沙代子はほっとした。まろう堂がある限り、ずっとそばにいる。そう言ってくれたような気がしたのだ。
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