失くしたあなたの物語、ここにあります
 両親が別居してからも、はたちになるまで、年に一度は古本屋にいる父に会いに来ていた。土地勘はある。

 駅前のスーパーへ行き、数日分の食材と日用品を買い込むと、ふたたび自宅へ戻った。

 日は暮れ始めていたが、ため込んでいた洗濯物を洗濯機へ放り込み、洗濯機を回している間に、牛肉とたまねぎ以外の食材を冷蔵庫に片付けた。そこまですると、流れるように体が動いた。使う食器をひと通り洗って、まな板の上のたまねぎを手際よくスライスしていく。

 沙代子は料理が得意だった。両親が別居してから、正社員で働き出した母の代わりに沙代子が家事をまかされていたからだが、単純に料理をつくるのが好きだったのもある。

 高校は調理師免許の取れる学校へ通わせてもらい、卒業後は製菓専門学校へ進学した。そして、パティシエとして働き、独立の夢に向かって奮起していた。

 ああ、そうだ。父の死の知らせを聞くあの日までは、やる気に満ちあふれるだけでなく、輝いた未来を想像できていた。

 牛肉とたまねぎを煮込む鍋を眺めていると、唐突にチャイムが鳴った。

 誰だろう。ここへ引っ越したことは、親友と呼べる友人にもまだ話していない。訪ねてくる人がいるとしたら家族だけだけど、彼らが来る可能性は限りなくなかった。

「はーい、どなたですかー?」

 エプロンで手をぬぐって玄関扉を開ける。すっかり日の沈んだ中、玄関灯に照らされた男の人が紙袋をさげてポーチに立っている。

 見覚えのあるその青年に、沙代子は「あっ」と声をあげていた。

「まろう堂の店主さんっ」
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