失くしたあなたの物語、ここにあります
 天草さんもそれに気づいたようだ。

「お仕事が休みなんだと思う」
「和久井さん、月曜日にまたこっちに来るって言ってたし、まろう堂にいらしたら、葵さんに連絡いれるよ。今日はバイト?」

 険しい顔をしたかもしれない。彼はつとめて明るく言う。

「あっ、ううん。今日は休みをもらったの。ちょっと出かけたいところがあって」
「もしかして、お墓参り?」

 彼の視線が足元に向く。バケツに入ったしきびに気づいたようだ。

「今日は父の月命日だから、お墓参りに行こうと思って」
「俺も行かせてもらいたいな。開店前なら行けるんだけど、今からは早いかな?」
「あっ、ううん、大丈夫。天草さんが来てくれたら、父も喜ぶと思う」

 そうと決まったら、大急ぎで沙代子は支度を整えると、天草さんとともに、駅前通りを渡った先にある墓地へと歩いて向かった。

 朝の墓地は静けさに包まれていた。時折、鳥の鳴き声が聞こえて、周囲を覆う木々がそよそよと揺れる。ここが住宅地の中にあることを忘れさせるような、穏やかでゆったりとした空気が流れている。

 父はきっと、天国でものんびりと書物を堪能しているんじゃないだろうか。そんな風に微笑ましく思える。

 先祖代々が眠る葵家の墓石は、墓地の奥まった場所にある。しきびを腕に抱き、水桶を持ってくれる天草さんと並んで砂利道を進んでいくと、墓石の前で見知った女の人がたたずむのが見えた。

 天草さんが一歩踏み出すから、沙代子は彼の袖をつかんで引き止めた。彼はすぐに察したのか、無言でうなずく。

 女の人は長い間、手を合わせていた。父と何を話しているのだろう。それを想像するのは無粋で、ただふたりの会話が終わるのを待っていると、そっと手を下ろした彼女がようやくこちらに気づく。

「和久井さん」

 沙代子が名前を呼ぶと、和久井さんは優しい笑みを浮かべてゆっくりと頭を下げた。
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