自らを越えて
黒い霧の一瞥
それでカナが思いとどまり剰(あまつさ)え眼前のこの男さえもがビビってしまったようだ。ゴクリと唾を飲み込みもはや長居は無用とばかり早々にこの場を立ち去ろうとする。「じゃ、俺はこれで…」と、お見逸れした大伴さんに許しを請うがごとくにコクリとひとつうなずいてから怖ず怖ずと離れて行く。そんな男など大伴さんはもはや無視してカナを見据えるばかりだ。まったく、性格判断ゲームを披露してまで俺たちの親和を図ってくれた大伴さんなのに、そしてそのお陰で俺、カナ、ミカが些かでも本音で語り合えるようになったばかりだったのに…俺は情けなくてうつむくばかりだ。と、しかしこの時男の視線を感じたような気がしてそちらを見ると男が〝この俺に向かって〟陰湿な一瞥を向けていたのだった。その目は『ざまあ見ろ。見っともない様(ザマ)こきやがって。へへへ、してやったりだ』と云っているようだった。無性に腹が立ったがしかしいまさらもう遅い。大伴さんの喝を我が身で受けたくなかったし、積み木崩しの災禍を、悲哀を、もうこれ以上大伴さんに味わわせたくはなかったのだ。俺は心中で『黒い霧容易(たやす)からず』を痛感するばかりである。しかし図らずもこれが、この見っともないザマが、さきほど大伴さんが俺たちに問うた「限界を感じる時はない?お決まりのパターンを抜け切れないということはない?」という設問に対する、単なる言葉ではない、我が身の情けなさ、ミゼラブルをもっての答えとしてしまった、なってしまったようだ。元来俺はいざ鎌倉という時に逡巡してしまう、今一歩が踏み出せないという悪癖がある。すなわちいつもいつもその〝お決まりのパターンを抜け切れない〟のである。ここで云うなら、突然の男の剣幕にあっけにとられ、ただ唖然として男を見つめていたりしないで、この俺が対応すればよかったではないか。男なんだから。大伴さんが詫びるより先に、カナが(殆ど病的な?)攻撃反応を起こす前に、俺が矢面に立てばよかったのだ。それは何も男と一戦交えろということではなく(必要ならすべきだが)例えば「ちょっとあなた、失礼だが何もそこまで怒ることはないでしょう?」とでも物申せばよかったのである。それをせずにカナを諫めた結果カナにブン殴られそうになった。