自らを越えて

一人称を装う心中の何か

そこでも記したようにこれをそうと認識するのではなく、自分の思念そのもののようにただぼんやりと意識するだけなのだが、ただここで問題なのはそれが守護霊どころか何と称すべきか、一種黒い霧とでも説明する他はない、モヤモヤとした鬱積の塊りのような塩梅でもって、しかし確実に俺の心の一画をそれが占めるようになっていたことなのだ。そのゾーンの特徴を云えばやたら自嘲的でしかしそれと同時進行形で他人にもやたら侮蔑的なのだった。小学校時分と違って自意識の度合も進み、語彙も豊富になっていたぶん俺に対するそいつの決めつけ方も当を得た、俺からすればきついものとなっていた。ただそれは飽くまでも一人称の相互思念として意識されるのだ。こんな具合いにである。「ちぇっ、俺ってやつはまったく意気地なしで、面白味のないやつだなあ。皆から弾かれて当然だよ」「ふん、そうそう、その通り」「女みたいに相手から話しかけられるのを待ってるだけで、てんで自分から口を利くことも出来やしねえ」「まったくなあ、その通りだよ」などという塩梅だが、しかしその相互思念中の「俺」を「お前」に置き替えてみるならば、これは立派な二者による会話なのであって、それを装った一個人の中における想念問答とはこれは云えなくなる。つまり、放置して置けばハッキリとこれは「危険」な兆候なのだが、前記したようにそれへの他者認定など考えることすら覚束ず、ただ徒にその一人称的相互思念に馴れるのみ、いや侵されるのみであったのだ。とにかく、こうして浜田と高木をここに挙げてみせたのは、自分本位のままなのか、あるいは他者指向が出来るのかという、己における人間完成度如何を示すモデルと云うか、表象として両君にご登場願ったのであるが、結果的にそのどちらのタイプにも俺はなり切れなかった。いや、そのどちらのタイプからも謂わば“中途半端者”として嫌われてしまったのだ。代わりに心中の新たな友たる一人称想念の相手、つまり黒い霧との交誼が深まって行ったのだが、因みにこの時期、つまりかの名作『若きウエルテルの悩み』で云うところの、疾風怒濤期たる青春時代を捉えてのこの黒い霧の登場の理由は、文字通り彼本人がウエルテルであるからだろう。疾風怒濤期などと云えば聞こえはいいが換言すれば「情念的に甚だ不安定な青春時代」なのであり、それでも他人指向が出来るのならシャルロッテを求めようが、それならぬ俺ならば孤独と孤立への不安が、語弊があるが“青春の生命力”分だけ、無意識レベルではあってもきっと強かったのだろう。それゆえの黒い霧出現だったがしかし繰り返すがこの時は悉皆そんなものには気づかず、ただただ花の中学時代の再興を期していたのだった。
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