自らを越えて
人間とは関わりに生きるもの
…実は、この詩の作者はロートレアモンではなく俺自身である(もちろん「マルドロールの歌」というロートレアモンの散文詩集があって、この俺の詩はそこから題名をそのまま頂戴した次第)。わが拙詩を以てフランス象徴派を代表する…などとは烏滸がましさにも程があるのだが、ここは飽くまでも自伝的且つ私小説的な当小説の思惑からして、ひとつご勘弁願いたい。この〝自らの手で幼子の頬をナイフで切り裂いておきながら〟「おう、よしよし」とばかりにその子を慰め労わるというその件は、ロートレアモンの原詩をそのまま引いた訳だが、これを始めて目にした時にはさすがの俺も『いったいなんて奴だ』と呆れ果てたものだった。しかしよくよく原詩を吟味してみるならば、恐ろしくも情けなくも、『これは俺だ』と認めざるを得ないものがある。昨今は〝ふれ合い〟なる言葉がトレンドなようだが、本来人というものは「人間」という表記からも自明なように、人と人の関わりの中に於てこそ存在意義があるというか、その面目躍如を果たし得るものである。にも拘らず孤独の名のもとに、人間としてのその本地に立てないものならば、恰も(魂の)呼吸が出来ない状態に陥る…と云えばオーバーになるが、それこそ自己中毒のような塩梅となってマルドロールの所業の如きものに転化しかねない。これを換言すれば人間というものはそれほどに他者との関係を求める、必要とする生き物なのにも拘らず、それが叶わなければ斯く奇形化さえしてまうということなのだ…。