自らを越えて

幼児・小学校での心象風景

そんな俺にとって一番つらく、脅威だったのが学校の遠足で、その合い間の昼食の時間だった。同級生たちは三々五々仲良し同士でかたまって食べるのだが、俺には友達など誰もいなかったから皆の目から隠れるようにして一人で食べ、それがまわりからよく目立つので、早く集合の号令がかからないものかとジリジリとしていたものだ。その姿に顕著なように傍目から見たらなにしろおとなしい生徒、わけのわからない、見っともない存在だったのだろうし、そのことをよく自覚していた俺にあっては毎日毎日が自らのインフェリィオリティを自覚し続ける、一種精神的な拷問のような日々であったのだ。しかしではなんでそんな性格の子になったかと云うと、俺が3才のころに母親が死別し、俺と2つ違いの姉は近所の親戚の家に行ってはその賄いを受け、果ては遠く奄美大島の祖父母のもとに送られたりして、はなはだ不安でこころもとない幼児期を過ごしたからだった。そのころの原体験というか、心象風景が、あたかも放浪に日々を過ごすがごとき哀愁に充ちたものとなって、三つ子の魂百までもではないが以後の俺の性格を形づくるバックボーンとなったのだろう。そのバックボーンと云うか、心の基盤は、不定形であり定義し難いものだが、要はいつの間にか自らの核のようになっていつまでも存在し続けることとなる。母親のみ胸に帰るように、その不安に充ちた基盤にこそ、俺は魂のふるさとをいつも見出すようだ。 
 とにかくそのような体験を経て俺は「人に嫌われないようにしよう」とする、人一倍自分に対する人の目というものに敏感な子供になっていた。しかし豈(あに)図らんやそのような弱弱しく、覇気のない性格の自分にあっては、他人から好かれることなど土台無理な話で、畢竟前記のごとく「貝のように固まっている」しかなかったわけである。それ加うるに俺の父親が軍隊帰りの気性の荒い人で、酒乱の気もあって、俺はいつも父から叱られないよう、彼の気に入られようと、ひたすらいい子ぶっていた。従って、結論的に云えば俺はいつも受動的でジャスト弱く、こちらから他人にどうこうしようなどとは思いもつかない、影のような子供だったのである。しかしその影であるということの苦しさと云ったら云うに云えないもので、そんな俺の小学校時代にいい思い出などはほとんどない。
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