自らを越えて

あのう、村田君…じゃありません?

しかしもちろん在籍当時は彼女が3年生で俺が1年坊だったし、いるんだかいないんだかすら知れない根暗の俺であっては彼女の知己にあずかることはなかった。もちろん偶然鉢合わせした今でさえ彼女には俺が誰であるのか知る由もなかったろう。だがそれにしてもいきなり現出した女神と云うか俺の驚きは大きく、大伴さんら一行が登山スタイルであることも失念してしまい、一瞬二瞬ではあっても茫然自失の呈を俺は余儀なくされてしまった。しかしすぐにそれと気づいて、間違いなく赤面しているだろう自分の顔を対面のバス停や左奥のターミナルのバス停に向けて、わざとらしく腕時計を見つつ、バス停を選んでいるような素振りを俺は見せる。いまさらのように彼女らのいでたちに気づき、これは堪らない、いたたまれないと思ったからだ。万が一彼女らも丹沢詣でだったとしたら同行程たる俺の存在は彼女らの目に付き、鼻に付くに違いないのだ。すなわち目障りな存在となってしまう。そんな思いはさせたくなかったし、元凶となる俺にあってはなおさら堪らなかった。バス停の時刻表を見て決心をつけたようにひとつうなずいてから(本当は発車時刻など遠に知っていた、今いるこの新城行きが一番早かったのだ)通りの対面の綱島行きのバス停に移ろうとした刹那、それまで俺の出現とともにだんまりを決め込んでいた3人だったのが、いきなり他ならぬ大伴さんから俺に声がかかった。「あのう、村田君…じゃありません?」彼女の口から出た俺の名前に俺自身が驚愕する。なぜ大伴さんが俺の名前を知っているのだろう?!あり得(う)べからざることだった。彼女の存在はどこにいても目立つので、例えば1年生時に毎朝の登校でいまと同じようにバスを待つ時などとか、彼女は知らず、俺の方では必ず大伴さんの容姿を目に焼き付けていた。しかし彼女が〝影〟に過ぎない俺などを意識することはなかった筈だ。過去たった1回の快事を除いては彼女との接触など一切俺にはなかったのだから。
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