自らを越えて

おーい、一年坊、俺達の女に手を出すな!

そのまま実感覚が失せたようにステップを踏み出した俺の耳元にしかし「手を離して」の一声が。右手を離すべきところでそのまま握り続けていたからだ。あわてて手を離し「すいません」と上ずった声であやまる俺の廻りを一回転したあとで、未だ左手だけは繋いだまま、今度は俺の真向かいに対面した大伴さんが「はい、こうして足を交互に出して、首を左右に傾げて」と、その動作をして見せる。その姿はまさに優雅そのものだが対する俺はまるでうつけだ。まるっきりぎこちない。現実感が失せ続けている感じでしかなかった。しかしだからと云って「じゃ、もう一度」とばかり最初のポーズに戻って誘う大伴さんの右手を取らずに、その右腰に手を置いて、些かでも引き寄せてしまったのは痛恨の至りだった。「手よ、手。腰じゃなくって」と注意する大友さんの声にハッと我に返り、赤面羞髪天を突くありさまとなったのだったが、はたしていったい〝何が〟、俺をしてそんな破廉恥行為を為さしめたのか…まったく定かではない。魔が差したとしか云いようがないのだが、しかしその当の大伴さん自身は至って無頓着なままで平然としている。何ひとつ咎めるのでもない。そうこうする内に曲が鳴り始め、パートナーを換えながら踊る全体練習へと移って行った。もうこれで最後かと思うと今しがたの恥ずかしさはどこへやら、いま現実に、こうして、大伴さんの手を握っては、抱きかかえるように密着しているおのれの至福さを思うばかりである。このまま時が止まってくれればいいとさえ思う。その俺の強烈な念が伝わったものか2つの校舎を繋ぐ4階の渡り廊下辺りから3年男子の嫉妬の声が飛んで来た。「おーい、1年坊!俺たちの女に手を出すなーっ!」と。未だ授業中の時間の筈なのに2人の三年男子生徒が教室から出て来て、こちらを(間違いなく、俺と大伴さんを)見下ろしながら怒鳴っていたのだ。しかし、知るものか!である。
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