自らを越えて
第六章 丹沢行(1)再びマドンナと

老桜

 1968年9月22日朝8時過ぎ小田急線秦野駅から神奈中バスに乗り菩提というバス停で降りる。朝まだきは辺り一面まだ霧模様だったがそこから北へ向かって2キロほど行った葛葉沢出合いまで歩いて行く。途中バス停からいくらも行かない街角に樹齢何百年という老桜があって、俺はそこを通る度に木の幹に手を当てて僅かなもの思いにふける。『俺はまだたったの17年しか生きていないが何百才というあんたの目からすればどうだい?人の世はひどくめまぐるしく映るかね?あんたの樹下を丁髷を結った侍や農民たち、あるいは丸髷を結った女たちがそれぞれの悩みを抱えて通ったことだろうな。堂々たる、老いたる大木よ、俺もそのうちの一人さ。あんたの下を通った数多の衆生の一人だよ。そんなちんけな存在のくせにそしてあんたからすればひよっこにもならないガキのくせに、身に支え切れないほどの生き行く悩みをすでにいっぱい持っているんだ。ふふふ、笑止だろう?俺はいつでも自分、自分、自分で、自分の桎梏からついぞ逃れられない。しかしそれでいながら自分というものがまるで分かっていないんだ。今日はひとつあんたやこの先の丹沢の山々に教えと開運を乞いに来た次第さ』などと漠々濛々(もうもうばくばく)な語り掛けをして立ち去ろうとした。しかしその一瞬離そうとした木の幹からオーラと云うか木の精と云うか、一種パワーのようなものの伝播を感じたのは錯覚だったろうか。またそれはこの先に広がる丹沢の峰々からも同様なものが伝わって来るようだ。あたかも俺に『委細心得たり』とでも云ってくれてるような塩梅である。どうもこの今日という日は〝何か〟が違う、〝何か〟が待っているような…?
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