自らを越えて
マドンナと俺が一日をいっしょに…?
そんなカナは軽く無視して「村田君も二の塔尾根狙いだったんだ。さすがじゃない。丹沢登山の通ね」と俺を持ち上げてみせたあとで「ところでお連れさんは?横浜駅で待ち合わせするって云っていたお友達。あちらの、水汲み場の霧の中にいるのかな?」と痛いことを大伴さんが訊いて来た。しかしそんなもん居る分けがない。答えるまでもなく日の上昇とともに霧がサーっと、みるみるうちに退いて行き俺の作り話の嘘を証明してみせた。俺は『へえ、大伴さん、ここの水汲み場まで知っているんだ。それに感心したのはこっちの方だよ。てっきり一般的な表尾根ルートかと思っていた』などと思いつつも『しかしどうしようかな、なんと答えたらいいんだか…』と一瞬二瞬心中で苦悶したあと「は、はい。あの、その…きゅ、急用が出来たとかで結局来なかったんです』と出まかせを云ってしまう。云ったあとで『バカヤロウ、どうやって俺に知らせたんだ?俺に電報でも打ったってか?』すぐにそう気づいたがあとの祭りだ(この小説は1968年の設定です。携帯やスマホなどまだ影も形もありませんでした)。顔を赤くしてどもるように黙り込む俺に「ああ、そうだったんだ。それじゃあ仕方ないわね。ところでそれなら、やっぱり村田君一人にお願いするわ。わたしたちの護衛係。ね?」と俺の嘘など気にする風もなく大伴さんが俺に帯同を〝命じた〟。俺はこれからの大伴さんとの道連れを思えば嬉しくて仕方ないのだが素直じゃないので、顔の紅潮をなお濃くすることで内心の意を示した。マドンナと俺がいっしょに一日を?…事ここに至っても未だに信じられない。「ところで村田君、わたしたちはこのあと葛葉沢を沢登りして二の塔、あとは何とか塔ノ岳まで行って、そこから大倉尾根を下るつもりなの。それで…あなたはどういうルートを行くの?やっぱり二の塔尾根かな?」えっ?とばかり再び俺は驚いた。