自らを越えて
守護・指導霊
実際は単なるハッタリなのかも知れないがその構えによって見る者が萎縮し、相手を過大評価してしまう。この類のことが俺の身に起きたということである。 もっともそんなものは文字通りハッタリですぐに化けの皮をはがされるだろうと思うだろうが、事と次第によってはそうでもない。さきほどの「始めに構えあり」でいったん壮言大語したことをみずからへの指針とするか、あるいはいただいた役どころと心得て、それを演じようとするならばそのまま通ってしまうことだってある。俺がいい例だ。なにしろ中学校での三年間をそれで通してしまったのだから。とにかくそれが一点で、では他の一点だがこちらの方ははたしてそのまま読者に受け入れてもらえるかどうか甚だ心もとない。と云うのも話がいたってオカルト的になるからである。どういうことか…とにかく書いてみる。いきなりだが皆さんは守護・指導霊ということを、その言葉を知っているだろうか。人間各自の背後にあってその人を守護したり指導したりする霊のことで、その存在を本人が普段から感知することはないし、できないと云われている。しかし自覚せずとも普段にその助けや働きを受けているのだそうだ。前に自己紹介の折りに「俺の中の誰かが…」と書いたがこの時の‘誰か’がその守護霊なのではないか…と思う次第なのである。そういうわけは、自分でしゃべっていながら自分ではないような気がしたからだし、何よりも自分の豹変ぶりが信じられなかったからだ。すればその正体は守護霊か、あるいは何かの憑依のたぐいではないかと思うしかないではないか。ただもっともそう思うに至ったのはその時ではなく、それよりはるか未来のことで、当時は守護・指導霊などという言葉さえも知らなかった。小説冒頭の紹介文に掲げた「折々の高見に立ってこそ越し方が見える。わかる」という時点から俺は今これを書いている。いまの俺の年令は聞くなかれ、だ。なにせ気ばかりでも往時に戻って書いているのだから、ひとつお許し願いたい…。ともかく、この守護霊様か指導霊様か知らないがその折り同様にこれ以後も何回かこの小説内に登場することとなる。もっとも「わしが守護霊じゃあ」などと云って出て来るわけでは全然なくて、このとき同様にみずからの全きカオスの内に出現するのであるが…。