自らを越えて

俺を(地獄から)引き上げてくれた大伴さん

よし来たとばかり俺はその木の根っこを右手で掴むと大伴さん同様に力を入れて一気に…と思ったのだが、事ここに至って右足の踵が気になる。痛くって踏ん張りが利かないのだ。そうでなかったら以前は全然問題のなかったこの程度のオーバーハングに、始めて恐怖心を抱く。しかし大伴さんやカナ、ミカの手前躊躇する分けには行かなかった。無理にでも身体を引き上げようとしたが一瞬でも右踵をかばってしまう。為に中途半端な体位となり心中で『危ない!』と叫んだその刹那「手を取って!」と鋭く云い大伴さんが右手を差し出した。瞬間的に俺はホールドから右手を離すとすべてを託すように大伴さんの右手を握った。左手で別のホールドを確保していた大伴さんがグイッとばかりに一気に俺を引き上げてくれる。一瞬でも感じた命の危険に些かでも呆然自失気味の俺の背に手をまわすと「よかったわねえ、村田君。もう大丈夫よ。登ったのよ。直登できた。ね?よかった、よかった」と云って大伴さんが俺を抱きしめるようにしてくれる。この瞬間〝群肝の(むらぎもの・枕詞)心ぬくめる抱擁を嬉しと思ふ人に託さずや〟とでも和歌を詠みたくなるような心持ちがしたものだ(※変なところで突然和歌…で恐縮だが、実はこの小説の作者たる私は、後年和歌をたしなむようになり、小説のこの場面でどうしても一首詠みたくなってしまったのです。時空を超えた反則技かな?…たいへん失礼しました。でもこのあともまたやるかも?)。どんなに強い人でも1人では生きて行けない。俺はいままで縷々記したように人一倍(心が)弱かったが、しかしそれゆえにこそ、その弱い心を人に気取られまいとして、人から守ろうとして、いたずらに人に頑なだったのだ。それがオーバーかも知れないがこうして命を救ってもらって、しかもその人から抱きしめられもして、誰か頑なさを解かないだろうか?その抱擁にわが身をすべて託したくもなったのである。だが苟も男と女の身で、またこれでは男女の立場が逆だし、相手は先輩でマドンナだし、下からカナとミカも見ているし、首を大伴さんの肩に置いて両手を背にまわし、托身の表現などできる筈もなかった。
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