元風俗嬢の愛海ちゃん、ストーカー御曹司とせふれになる。

11 最後の仕事

 眼下一面に広がる街と海を臨みながら、愛海と侑人はタワーの中にあるラウンジで席についた。
 ラウンジは落とした赤茶色の照明の中、静かなジャズの流れる空間で、隣の客の会話が聞こえないくらいに広く一つ一つのソファーが並べられていた。
 侑人は黒服の給仕を呼ぶと、愛海を確認しながら注文を始めた。
「病院帰りだから、優しいものがいいね。アンティパストと季節の煮込み、キッシュくらいでどうかな?」
「う、うん。お任せするよ」
 メニュー表も見ずに注文した侑人に驚いて愛海がうなずくと、給仕は一礼して静かに下がっていった。
 向かいの席の侑人は仕事帰りのスーツ姿で、気負わず自然に構えているところがこの空間になじんでいた。それに比べて自分はどう見えるのだろうと、愛海は少し心もとなかった。
 けれど夜景に心躍る気持ちはあって、眼下の光の洪水を目を輝かせてみつめる。そんな愛海の顔を眺めて、侑人は口を開いた。
「見惚れるよ。子どもの頃も、今も。愛海ちゃんのはしゃぐ顔」
 愛海がきょとんとして侑人に目を戻すと、侑人はくしゃりと笑って続けた。
「そういう顔も、好き。愛海ちゃんの明るさに、子どものときから救われてきた」
「ゆ、侑人くんだって優しい表情だよ」
 愛海が照れて言い返すと、侑人はうなずいて答えた。
「愛海ちゃんにつられるんだ。俺はいつもは石みたいな表情してるんだよ? でも愛海ちゃんといると、気持ちが豊かになって優しい顔もできるようになった」
 ふいに侑人は目を伏せて憂い顔になる。
「契約って言葉は、愛海ちゃんの警戒を解けるならそれでよかったんだ」
 それから侑人は口をつぐんで、自然と愛海も言葉をやめた。
 ジャズの旋律が潮騒に似て、夜のひとときを穏やかにしていた。行き交う黒服の給仕の裾が流れるさまが、海の中のようだった。
 二人の前に食前酒がそっと置かれたとき、侑人はようやく口を開いた。
「別の契約に変えよう」
 愛海がまばたきをして侑人を見返したとき、彼はその言葉を口にした。
「……俺と結婚してくれないか」
 侑人の言葉を、愛海は一瞬冗談だと思ってしまった。
 こんなラウンジにも慣れた様子で出入りする彼とは、生まれも育ちも違う。元風俗嬢の自分、病気を治療中の自分、それらが愛海に引け目を持たせる。
 でも侑人は愛海の耳に口を寄せて、意地悪くささやいた。
「これを言うために、ストーカーし続けてたって打ち明けたら怒る?」
「えっ?」
 愛海がびっくりして思わず目をまんまるくすると、侑人は楽しそうに喉を鳴らす。
「客として会うことも考えたけど、どうしても専属になりたかった。だから愛海ちゃんが仕事をやめてここへ引っ越すように仕向けた。当然、愛海ちゃんが不調になった瞬間に手を差し伸べる」
 侑人は困ったように苦笑して言う。
「ずるいだろ? だから償わせて。愛海ちゃんのこれからの人生全部引き受けるから、俺を夫っていう唯一の人にして」
 愛海はまだ驚いていたけれど、次第にうれしさもこみあげてきた。
 生来の前向き精神で、愛海はそのうれしさを抱きしめる。
「……なんだか、「はい」って言っちゃいそう」
 侑人はほほえんで、声を低めて言葉を告げる。
「じゃあ今夜、最後の仕事をしてから決めて。人生を俺と共にするか」
 侑人はのぞきこむように愛海を見て言う。
 顔を上げた愛海の目をみつめながら侑人は続ける。
「今日はセフレとして、最初で最後の夜にしよう」
 ふいに二人は同時に眼下を見た。ちょうどタワーの裾のライトアップが金色に輝いて、黄金の海をのぞくような光景が広がった。
 愛海はぷっと笑って言った。
「うん! がんばっちゃうよ!」
 その夜、二人はセフレらしく、ありふれた甘い夜を過ごした後。
 婚姻届を出しに二人で手をつないで出かけたのは、ほんの少しだけ先の話。
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