無能の乙女は麒麟の花嫁に望まれる
麒麟が現れたなら、四神はかの者を中央に据えねばならない。何を差し置いても、太平の世を連れてくる麒麟を優先し、決して軽んじてはならない。
それは、千年以上も前から続くこの国の教え。
科学の進歩が目覚ましい現代、多くの国民が妖魔の存在など忘れて久しくとも政府は秘密裏に人ならざるものから人々を守る役目を、四神を司る四家――――青龍の木蓮家、朱雀の火乃守家、白虎の金宮家、玄武の水無瀬家に任せ、さらには先の教えを遵守させていた。
だから……。
「僕のお嫁さんになってくれるよね? 結月」
その答えに対する拒否権など、一介の小娘に過ぎぬ結月は、一切持ち合わせていないのだ。
そう、麒麟の求婚を断る術など、どこにも。
極東の国、日ノ本。四神を司る四家の歴史は古く、魑魅魍魎が跋扈していた時代から続いている。
その昔、南の地方を治めていた火乃守家は四神の一体である朱雀に愛され、賜った火の力を駆使して魔を薙ぎ払っていた。他の神々に愛された三家も同様だ。
そしてそれは現代まで続き、この国を陰から支え続けてきた火乃守家には、国の中枢から莫大な富と権力が与えられたが――――隆盛を極めた一族でも、枝葉のように広がった分家となれば、血筋によって受け継がれる破魔の能力も弱く、恩恵も少ない。
そのため火乃守家の分家筋として生まれた結月も妖魔を払う能力は低く、いやそれどころか、火の神である朱雀の炎を操る力すら宿っていなかった。さらに悪いことには……。
「開けて……っ、お父様、お母様……! 助けてくださいっ」
七つになったばかりの結月は、漆黒の髪を振り乱して閉めきられた扉の向こうに助けを乞う。真っ暗な蔵の中、冷たく閉ざされた扉をこじ開けようとした爪は剝がれ、血が滲んでいた。
「食べられちゃう、助けてぇ……っ」
埃っぽく身体の芯から冷える蔵の中には、親に閉じ込められた結月以外にも気配が一つ。しかしそれは明らかに人間のものではない。扉に縋る結月の背後からは、卵が腐ったようなひどい悪臭とズルズルと巨体が地べたを這う足音がする。怯えながらも目を凝らせば、いくつもの目玉がついた毛むくじゃらの妖魔が間近に迫っていた。
恐怖で結月の鼻先が冷える。頭が真っ白になったところで、今しがたまでビクともしなかった扉が外側から開き、厳格な表情の父親が蔵に足を踏み入れた。
「こんな低級の妖魔も払えないとは、情けない」
結月が心の臓が凍るような声を浴びせられた直後、手をかざした父親によって、妖魔は上から木槌で叩かれたかのごとく潰れる。グシャリとひしゃげた醜い姿が、外から差しこむ光によって結月にもよく見えた。気味の悪い青紫の血が、頬に点々と飛ぶ。
「危険に晒されれば加護が発動するかと思ったが、やはり何の力も宿っていなかったか」
加護とは、朱雀より賜った火の力とは別に、四家の者に生まれ持って与えられる破魔の能力のことだ。例えば父親は物体に重力を付与することができ、今のように妖魔を押し潰して払うことが可能だ。
けれど結月は火乃守家の出にもかかわらず、今日まで朱雀の火の力が使えない上、加護が何かも不明だった。何せこれまで一度も、加護を発動したことがないのだ。
そのせいだろう。いつまでも加護を発現しない娘に焦れた両親は、生け捕りした妖魔と結月を蔵に押しこめ、無理やり才能を開花させようとした。
けれど――……。
「加護も持たない無能だったなんて、一族の面汚しもいいところだわ」
扉の外で待機していた母親は、虫けらを見るような目を結月に向けて言った。幼い実の娘が泣き腫らした目で蔵から出てきても、爪の剝がれた指先から血が滴り落ちていても、心配や謝罪の一言すらない。その目にはただただ、失望の色が浮かんでいた。
「お母様……」
「貴女が私の娘だなんて、冗談じゃないわ。貴女が無能だと私の肩身が狭いじゃない。せっかく名家である火乃守家に嫁いだというのに……」
肩を震わせる母親に、結月は幼いながらに大罪を犯したような気分になる。身の置き所がないような孤独と指先の痛みに涙を止められずにいると、母親の後ろから明るい声がかかった。
「母様、気を落とさないで。私がいるじゃない」
赤みがかった髪を揺らしてこちらに歩いてくるのは、二歳年上の姉である美夜だった。子供でありながら華やかな目鼻立ちをしており、栄養の行き届いた長髪は豊かに波打っている。
カナリアのような声を耳にした母親は、パッと表情を輝かせた。
「美夜! ああ、愛しい私の子!」
「一族の中でも末端の末端である我が家にとって、加護の強いお前は希望だ」
蔵から出てきた父親も、満足げに長女を見下ろして口角を上げる。
「お前は将来、きっと火乃守家を盛り立てる存在になる。結月とは違ってな」
「そうね。結月は、美夜の出涸らしみたいだわ」
母親は吐き捨てるような口調で言う。
七歳の結月に『出涸らし』という意味は分からなかったが、悪意の籠った言葉だというのは、蔑むような口調から十分伝わった。
「ええ。妹が不出来な分、私が活躍してご当主様にも気に入られてみせますわ」
美夜は胸を反らして宣言する。その意気だと喜ぶ両親と、得意げな姉。
「ごめんなさい……」
結月の謝罪すら、家族の誰も耳に入れてくれない。指先からは相変わらず血が滴り足元に血だまりを作っていたが、この場で傷を心配してくれる者は一人もいなかった。
朱雀の力も加護も持たないことが明らかになってから、火乃守家での結月の居場所は完全になくなってしまった。
元より、火乃守家の代名詞とも言える火を扱う能力を有していないことで小馬鹿にされてきた結月だったが、加護も持たないと分かっては、もはや家族にとって恥でしかないのだろう。
「火乃守家だと名乗ることすらおこがましい。身の程を弁えて過ごすのよ」とは、母親の言葉だ。
両親からは、四家や妖魔の存在を知る使用人と同じように家事をするよう強要された。しかし扱いはそれ以下だ。
食事は基本、調理を手伝ったにもかかわらず残り物のみ。お風呂は冷えきったお湯を、皆が寝静まった頃にひっそりと。服は最低限のものを何度も自分で繕いながら着用し、寝床は天井の低い納戸に擦りきれたせんべい布団。
火乃守家としての能力に欠けるならば、いっそ一族の者には見えぬようにしてしまえばよいというのが、両親の考えらしい。そしてその思考を助長させているのが、姉の美夜だった。
「残飯を食べていて恥ずかしくならないの? 平気ならほら、私が踏んだやつだって食べられるわよね?」
炊事場の隅でひっそりと鍋に残った料理をよそって食べていた結月から皿を取りあげ、美夜は中身をひっくり返す。床にビシャリと落ちたそれを踏みつけた姉は、高い位置からニヤニヤと結月を見下ろして言った。
「ほら、食べなさいよ。ああ、私の汚れてしまった靴下はちゃんと捨てておきなさい」
汁物で濡れた靴下を脱ぐなり、美夜は結月の足元に叩きつける。その汚れた靴下だって、自分が着ているボロの服より高いことを結月は知っている。
両親は加護の優れた美夜にばかり良いものを買い与え、妹である結月は、そのお古すら与えられないのだ。能力の高さだけが人間として扱われる基準となるこの家で、まともな扱いなど望めなかった。
でも、幼い結月はまだ理解できない。
(……片付けなきゃ。今日はご飯抜きだなぁ)
黒真珠のような瞳に浮かぶ涙を手の甲で拭い、唇を噛みしめる。まだ十にも満たない子供であったが、自尊心をへし折られるには十分な年齢だ。
それでも家事を完璧にこなせば、誰にも口答えせず良い子でいれば、慎ましく生きていれば、いつかは家族の誰かが認めてくれるかもしれない。厄介なことに、そんな希望を捨てきれない年齢でもあった。
それは、千年以上も前から続くこの国の教え。
科学の進歩が目覚ましい現代、多くの国民が妖魔の存在など忘れて久しくとも政府は秘密裏に人ならざるものから人々を守る役目を、四神を司る四家――――青龍の木蓮家、朱雀の火乃守家、白虎の金宮家、玄武の水無瀬家に任せ、さらには先の教えを遵守させていた。
だから……。
「僕のお嫁さんになってくれるよね? 結月」
その答えに対する拒否権など、一介の小娘に過ぎぬ結月は、一切持ち合わせていないのだ。
そう、麒麟の求婚を断る術など、どこにも。
極東の国、日ノ本。四神を司る四家の歴史は古く、魑魅魍魎が跋扈していた時代から続いている。
その昔、南の地方を治めていた火乃守家は四神の一体である朱雀に愛され、賜った火の力を駆使して魔を薙ぎ払っていた。他の神々に愛された三家も同様だ。
そしてそれは現代まで続き、この国を陰から支え続けてきた火乃守家には、国の中枢から莫大な富と権力が与えられたが――――隆盛を極めた一族でも、枝葉のように広がった分家となれば、血筋によって受け継がれる破魔の能力も弱く、恩恵も少ない。
そのため火乃守家の分家筋として生まれた結月も妖魔を払う能力は低く、いやそれどころか、火の神である朱雀の炎を操る力すら宿っていなかった。さらに悪いことには……。
「開けて……っ、お父様、お母様……! 助けてくださいっ」
七つになったばかりの結月は、漆黒の髪を振り乱して閉めきられた扉の向こうに助けを乞う。真っ暗な蔵の中、冷たく閉ざされた扉をこじ開けようとした爪は剝がれ、血が滲んでいた。
「食べられちゃう、助けてぇ……っ」
埃っぽく身体の芯から冷える蔵の中には、親に閉じ込められた結月以外にも気配が一つ。しかしそれは明らかに人間のものではない。扉に縋る結月の背後からは、卵が腐ったようなひどい悪臭とズルズルと巨体が地べたを這う足音がする。怯えながらも目を凝らせば、いくつもの目玉がついた毛むくじゃらの妖魔が間近に迫っていた。
恐怖で結月の鼻先が冷える。頭が真っ白になったところで、今しがたまでビクともしなかった扉が外側から開き、厳格な表情の父親が蔵に足を踏み入れた。
「こんな低級の妖魔も払えないとは、情けない」
結月が心の臓が凍るような声を浴びせられた直後、手をかざした父親によって、妖魔は上から木槌で叩かれたかのごとく潰れる。グシャリとひしゃげた醜い姿が、外から差しこむ光によって結月にもよく見えた。気味の悪い青紫の血が、頬に点々と飛ぶ。
「危険に晒されれば加護が発動するかと思ったが、やはり何の力も宿っていなかったか」
加護とは、朱雀より賜った火の力とは別に、四家の者に生まれ持って与えられる破魔の能力のことだ。例えば父親は物体に重力を付与することができ、今のように妖魔を押し潰して払うことが可能だ。
けれど結月は火乃守家の出にもかかわらず、今日まで朱雀の火の力が使えない上、加護が何かも不明だった。何せこれまで一度も、加護を発動したことがないのだ。
そのせいだろう。いつまでも加護を発現しない娘に焦れた両親は、生け捕りした妖魔と結月を蔵に押しこめ、無理やり才能を開花させようとした。
けれど――……。
「加護も持たない無能だったなんて、一族の面汚しもいいところだわ」
扉の外で待機していた母親は、虫けらを見るような目を結月に向けて言った。幼い実の娘が泣き腫らした目で蔵から出てきても、爪の剝がれた指先から血が滴り落ちていても、心配や謝罪の一言すらない。その目にはただただ、失望の色が浮かんでいた。
「お母様……」
「貴女が私の娘だなんて、冗談じゃないわ。貴女が無能だと私の肩身が狭いじゃない。せっかく名家である火乃守家に嫁いだというのに……」
肩を震わせる母親に、結月は幼いながらに大罪を犯したような気分になる。身の置き所がないような孤独と指先の痛みに涙を止められずにいると、母親の後ろから明るい声がかかった。
「母様、気を落とさないで。私がいるじゃない」
赤みがかった髪を揺らしてこちらに歩いてくるのは、二歳年上の姉である美夜だった。子供でありながら華やかな目鼻立ちをしており、栄養の行き届いた長髪は豊かに波打っている。
カナリアのような声を耳にした母親は、パッと表情を輝かせた。
「美夜! ああ、愛しい私の子!」
「一族の中でも末端の末端である我が家にとって、加護の強いお前は希望だ」
蔵から出てきた父親も、満足げに長女を見下ろして口角を上げる。
「お前は将来、きっと火乃守家を盛り立てる存在になる。結月とは違ってな」
「そうね。結月は、美夜の出涸らしみたいだわ」
母親は吐き捨てるような口調で言う。
七歳の結月に『出涸らし』という意味は分からなかったが、悪意の籠った言葉だというのは、蔑むような口調から十分伝わった。
「ええ。妹が不出来な分、私が活躍してご当主様にも気に入られてみせますわ」
美夜は胸を反らして宣言する。その意気だと喜ぶ両親と、得意げな姉。
「ごめんなさい……」
結月の謝罪すら、家族の誰も耳に入れてくれない。指先からは相変わらず血が滴り足元に血だまりを作っていたが、この場で傷を心配してくれる者は一人もいなかった。
朱雀の力も加護も持たないことが明らかになってから、火乃守家での結月の居場所は完全になくなってしまった。
元より、火乃守家の代名詞とも言える火を扱う能力を有していないことで小馬鹿にされてきた結月だったが、加護も持たないと分かっては、もはや家族にとって恥でしかないのだろう。
「火乃守家だと名乗ることすらおこがましい。身の程を弁えて過ごすのよ」とは、母親の言葉だ。
両親からは、四家や妖魔の存在を知る使用人と同じように家事をするよう強要された。しかし扱いはそれ以下だ。
食事は基本、調理を手伝ったにもかかわらず残り物のみ。お風呂は冷えきったお湯を、皆が寝静まった頃にひっそりと。服は最低限のものを何度も自分で繕いながら着用し、寝床は天井の低い納戸に擦りきれたせんべい布団。
火乃守家としての能力に欠けるならば、いっそ一族の者には見えぬようにしてしまえばよいというのが、両親の考えらしい。そしてその思考を助長させているのが、姉の美夜だった。
「残飯を食べていて恥ずかしくならないの? 平気ならほら、私が踏んだやつだって食べられるわよね?」
炊事場の隅でひっそりと鍋に残った料理をよそって食べていた結月から皿を取りあげ、美夜は中身をひっくり返す。床にビシャリと落ちたそれを踏みつけた姉は、高い位置からニヤニヤと結月を見下ろして言った。
「ほら、食べなさいよ。ああ、私の汚れてしまった靴下はちゃんと捨てておきなさい」
汁物で濡れた靴下を脱ぐなり、美夜は結月の足元に叩きつける。その汚れた靴下だって、自分が着ているボロの服より高いことを結月は知っている。
両親は加護の優れた美夜にばかり良いものを買い与え、妹である結月は、そのお古すら与えられないのだ。能力の高さだけが人間として扱われる基準となるこの家で、まともな扱いなど望めなかった。
でも、幼い結月はまだ理解できない。
(……片付けなきゃ。今日はご飯抜きだなぁ)
黒真珠のような瞳に浮かぶ涙を手の甲で拭い、唇を噛みしめる。まだ十にも満たない子供であったが、自尊心をへし折られるには十分な年齢だ。
それでも家事を完璧にこなせば、誰にも口答えせず良い子でいれば、慎ましく生きていれば、いつかは家族の誰かが認めてくれるかもしれない。厄介なことに、そんな希望を捨てきれない年齢でもあった。
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