無能の乙女は麒麟の花嫁に望まれる
けれど悠に会えることはなく、婚約が決まって一週間もせぬ間に、結月は花嫁修業のために本家で暮らすこととなった。そこに結月の意思は存在しない。
これまで道端に転がる小石のような扱いを受けていた結月にとって、次期当主の婚約者という肩書きも、深窓の令嬢のような扱いも居心地が悪かった。
「次期当主の奥方となるお方が、炊事場に顔を出すなどいけません。まして作業するなんて……」
手持ち無沙汰になり、ついこれまでの習慣から食事の準備を手伝おうとすれば、使用人たちから注意が飛ぶ。今までの常識が覆った。
(これまでは両親や美夜姉さんの食事の準備をしなければ、ひどい罵声が飛んだけれど……ここでは借りてきた猫のように振る舞っているのが正解なのね)
自由がないのは、実家も本家も一緒だ。実家では居場所がなかったが、ここでも身の置き所がない。
(一度、悠にせがまれてこっそり夜食を用意したことがあったっけ。私が料理する隣で嬉しそうにお皿の準備をしてくれたり、美味しそうに頬張りながらお礼を言ってくれたの、嬉しかったな)
現実逃避と言わんばかりに、気付けばまた悠のことを考えている。緋路仁と結婚してしまえば、もう二度とそんなことも叶わないのに。
(寂しくても、耐えていかなきゃ。だって、初めて人の役に立てるんだから)
自分にできることを精一杯するしかない。子を産むのが役目というなら、成さねば。
ちなみに本家で生活するようになってからも、婚約者の緋路仁と話す機会は得られなかった。快活で柔和そうな見た目であることは夏と冬の集まりで給仕をする際に伺えたけれど、言葉を交わしたことはない。
(忙しい方なのかも)
ならば会えないのは仕方ない。それよりも、自分は目の前のことに懸命に取り組まなければ。
本家の人間に花嫁修業が必要と言われた結月は、指示されるがまま宛がわれた家庭教師から礼儀作法を必死に学んだ。
しかし授業を終えて自室に戻る道中、中庭の方から婚約者の緋路仁と姉の声が聞こえてきた。
(美夜姉さんの声……? 本家に来ているの?)
長年姉にいびられてきた経験から、結月は反射的に渡り廊下の柱の陰に隠れる。自室へ向かうには、どうしても中庭の前を通らなければならない。結月が立ち往生していると、嫌でも二人の会話が耳に滑りこんできた。
「ねえ、どうしてですか? 私の方が妹より見目が優れていると、緋路仁様もお思いでしょう? 貴方の隣には、私の方が相応しいわ。ねえ、私を選んでください。次期当主の妻は私に……!」
(……美夜姉さんが、緋路仁様に懸想している?)
姉の口から語られる内容に、結月は目をむく。朱雀を司る一族に相応しい見事な深紅の長髪を後ろで束ねた緋路仁は、強張った表情で美夜に答えた。
「確かに、君は妹の結月より美人だ。だが」
パッと輝いた美夜の顔が、緋路仁の次の言葉で陰る。
「君の妹との婚姻は、当主である父が決定したことだ。いくら私が君を気に入っていたって、婚約が解消されることはない」
「そうでしょうか」
美夜は芝居がかった声で、誘惑するように緋路仁の首へ腕を回した。
「千里眼の加護を持つ木蓮家の予言者によると、受胎の加護は一度きりしか使えないそうです。能力を受け継ぐ子を産ませた後は、愚昧を妻の座から引きずり下ろせばよいかと存じますわ」
まるで子を産む道具と言わんばかりだ。実の姉に物扱いされた結月は言葉を失う。夏にもかかわらず、床板から冷えが伝わり全身が凍りつくかのようだった。
美夜の発言に、緋路仁は迷うような素振りで言う。
「いや、そんな……」
「アレの姉である私がよいと申しているのですから、緋路仁様が気に病む必要はございませんわ。妹だって、自分の立場は弁えているはずです」
「そう、なのか」
「だからあの子を捨てた暁には、どうか私を次期当主の妻に据えてください」
美夜は緋路仁にそっと強請る。火乃守家の次期当主は、姉の毒のような魅力にすっかり堕ちた様子で囁いた。
「……分かった。私が当主となった暁には、美しい君を妻に娶ろう。結月殿には、私の子を産んだ後ですぐ離縁してもらう。ただし私の加護を受け継ぐ子供は貰う。それでよいか」
「もちろんです、緋路仁様。たったひと時でも、緋路仁様と夫婦になれるだけで、妹は幸せなことでしょう」
美夜は恭しく言葉を紡いだ後、毒々しい紅のたっぷり塗られた唇を緋路仁の唇に寄せる。
緋路仁と結婚し子を成したら、結月は用済みとして捨てられる。受胎の加護は一度きりしか使えない。再び役立たずとなった時、自分は実家に戻れるのだろうか。
足元がふらつき、いつかの時のように足音を立ててしまう。すると気配に気付いた二人は糊付けされたように絡み合っていた身体を離した。
結月の姿を認めた瞬間、緋路仁は焦りの色を浮かべ、目を逸らして去っていく。
「あ……」
その後ろ姿に何と声をかければよいのか分からず、結月は見送る。美夜は尊大に腕を組んで言い放った。
「自分の立場が分かったでしょ。アンタは蔑まれるために生まれてきたの。幸せになるなんて許されてないんだから」
「……私、美夜姉さんが緋路仁様を好きだなんて知らなくて」
「はあ? 別に好きじゃないわ。ただ、アンタが好条件の男と結婚するのが許せないから奪いたいだけよ」
「そんな、何で……」
「何で? アンタは私が優越感を得るためだけの存在だからよ。忌み嫌われているだけの存在でいればよかったのに、この身の程知らず」
力任せに肩を押されてたたらを踏み、縁側から庭先に落ちる。玉砂利に尻もちを突きながら、去っていく美夜の凍てつくような視線に震えあがった。
「あ、はは……」
(泣くな、泣いちゃダメ)
母からは胎扱いされ、父からは家を繁栄させるための道具と見なされ、婚約者は後継者を産ませたら自分を捨てるつもりでいる。そして血を分けた姉には憎まれて。
消費されるためだけに生きているみたいだ。
心が折れる音が、耳元で聞こえた気がした。
そしてあっという間に、婚約発表の日を迎えることとなる。
婚約発表は、夏と冬の集まりと同じく離宮で執り行われることになった。
大輪の牡丹の刺繍に金箔の散った着物を着せられ、髪も結いあげられた結月は、控え室で縮こまる。生まれて初めて着る高価な着物は、糸の密度が高いせいかずっしりとして重い。まるで自分の心と比例しているようだ。
緊張のあまり固く握った拳は、爪が真っ白になっていた。
今日は結月と緋路仁の婚約発表のため、四家と政府の高官がこの離宮に集まっている。宴会場として使われていた大広間は一の間だけで五十畳を越えていたことを思い出し、その空間を埋めつくすほどの人々を前に婚約を宣言するのだと考えれば、結月の胃がキリキリと痛んだ。
「準備はできたかい? ……へえ」
控え室に顔を出した緋路仁は、めかしこんだ結月を一瞥し、感嘆の息を吐く。
「……様になるものだね」
不躾な視線を送られ、結月は縮こまる。姉に惹かれているはずの相手にジロジロと品定めされるのは気分がいいものではない。
それでも結月は大人しく緋路仁に手を取られ、初老の使用人に誘導される形で大広間の前まで辿りつく。今まで給仕で幾度となく開けてきた襖が、まるで地獄へ続く扉のように重たく感じられた。
「火乃守家次期当主、緋路仁様。ならびに次期当主の妻となられる結月様がご入場いたします」
初老の使用人の声が襖の向こうにかけられ、廊下の端に膝を突いて控えていた女中が、両側から開ける。ああ、覚悟を決める時がきたのだ。何もかも諦める覚悟を。
けれど襖の向こうに広がった景色に、結月は目を瞠った。
「……え……?」
大方想像していた通り、大広間にはズラリと四十近くの人間が整列していた。しかし驚いたのは、彼らが正座した状態で、こちらではなく上座に向かって深々と頭を垂れていたからだ。
そう、まるで――――神仏に祈るかのごとく。
「待ってたよ、結月」
白檀の柔らかい香りを伴って発せられたのは、低く澄んだ声。この持ち主を、結月はよく知っている。けれど、同時に知らないのだ。
右側の上手に座るのは、テレビや新聞で何度も目にしたことがある政府高官だ。顔を見なくても格好だけで分かるくらいの有名人である。
左にずらりと並んでいるのは、木蓮家の当主である時雨をはじめとする四家の当主。下手には両親や、美夜の姿もある。
彼らがい草の香る畳に額をすり合わせて顔を上げられないような殺気を、上座で放っている人物。その人を結月は知らない。今まで知らなかった、雪のように儚げで美しく優しい、悠の姿しか、知らなかったのに。
以前会った時より、前髪が少しだけ伸びただろうか。イエローサファイアの瞳にサラサラとかかっている。双眼の色に合った芒色の羽織は秋の訪れを感じさせ、時間の経過を結月に伝えた。
これまで道端に転がる小石のような扱いを受けていた結月にとって、次期当主の婚約者という肩書きも、深窓の令嬢のような扱いも居心地が悪かった。
「次期当主の奥方となるお方が、炊事場に顔を出すなどいけません。まして作業するなんて……」
手持ち無沙汰になり、ついこれまでの習慣から食事の準備を手伝おうとすれば、使用人たちから注意が飛ぶ。今までの常識が覆った。
(これまでは両親や美夜姉さんの食事の準備をしなければ、ひどい罵声が飛んだけれど……ここでは借りてきた猫のように振る舞っているのが正解なのね)
自由がないのは、実家も本家も一緒だ。実家では居場所がなかったが、ここでも身の置き所がない。
(一度、悠にせがまれてこっそり夜食を用意したことがあったっけ。私が料理する隣で嬉しそうにお皿の準備をしてくれたり、美味しそうに頬張りながらお礼を言ってくれたの、嬉しかったな)
現実逃避と言わんばかりに、気付けばまた悠のことを考えている。緋路仁と結婚してしまえば、もう二度とそんなことも叶わないのに。
(寂しくても、耐えていかなきゃ。だって、初めて人の役に立てるんだから)
自分にできることを精一杯するしかない。子を産むのが役目というなら、成さねば。
ちなみに本家で生活するようになってからも、婚約者の緋路仁と話す機会は得られなかった。快活で柔和そうな見た目であることは夏と冬の集まりで給仕をする際に伺えたけれど、言葉を交わしたことはない。
(忙しい方なのかも)
ならば会えないのは仕方ない。それよりも、自分は目の前のことに懸命に取り組まなければ。
本家の人間に花嫁修業が必要と言われた結月は、指示されるがまま宛がわれた家庭教師から礼儀作法を必死に学んだ。
しかし授業を終えて自室に戻る道中、中庭の方から婚約者の緋路仁と姉の声が聞こえてきた。
(美夜姉さんの声……? 本家に来ているの?)
長年姉にいびられてきた経験から、結月は反射的に渡り廊下の柱の陰に隠れる。自室へ向かうには、どうしても中庭の前を通らなければならない。結月が立ち往生していると、嫌でも二人の会話が耳に滑りこんできた。
「ねえ、どうしてですか? 私の方が妹より見目が優れていると、緋路仁様もお思いでしょう? 貴方の隣には、私の方が相応しいわ。ねえ、私を選んでください。次期当主の妻は私に……!」
(……美夜姉さんが、緋路仁様に懸想している?)
姉の口から語られる内容に、結月は目をむく。朱雀を司る一族に相応しい見事な深紅の長髪を後ろで束ねた緋路仁は、強張った表情で美夜に答えた。
「確かに、君は妹の結月より美人だ。だが」
パッと輝いた美夜の顔が、緋路仁の次の言葉で陰る。
「君の妹との婚姻は、当主である父が決定したことだ。いくら私が君を気に入っていたって、婚約が解消されることはない」
「そうでしょうか」
美夜は芝居がかった声で、誘惑するように緋路仁の首へ腕を回した。
「千里眼の加護を持つ木蓮家の予言者によると、受胎の加護は一度きりしか使えないそうです。能力を受け継ぐ子を産ませた後は、愚昧を妻の座から引きずり下ろせばよいかと存じますわ」
まるで子を産む道具と言わんばかりだ。実の姉に物扱いされた結月は言葉を失う。夏にもかかわらず、床板から冷えが伝わり全身が凍りつくかのようだった。
美夜の発言に、緋路仁は迷うような素振りで言う。
「いや、そんな……」
「アレの姉である私がよいと申しているのですから、緋路仁様が気に病む必要はございませんわ。妹だって、自分の立場は弁えているはずです」
「そう、なのか」
「だからあの子を捨てた暁には、どうか私を次期当主の妻に据えてください」
美夜は緋路仁にそっと強請る。火乃守家の次期当主は、姉の毒のような魅力にすっかり堕ちた様子で囁いた。
「……分かった。私が当主となった暁には、美しい君を妻に娶ろう。結月殿には、私の子を産んだ後ですぐ離縁してもらう。ただし私の加護を受け継ぐ子供は貰う。それでよいか」
「もちろんです、緋路仁様。たったひと時でも、緋路仁様と夫婦になれるだけで、妹は幸せなことでしょう」
美夜は恭しく言葉を紡いだ後、毒々しい紅のたっぷり塗られた唇を緋路仁の唇に寄せる。
緋路仁と結婚し子を成したら、結月は用済みとして捨てられる。受胎の加護は一度きりしか使えない。再び役立たずとなった時、自分は実家に戻れるのだろうか。
足元がふらつき、いつかの時のように足音を立ててしまう。すると気配に気付いた二人は糊付けされたように絡み合っていた身体を離した。
結月の姿を認めた瞬間、緋路仁は焦りの色を浮かべ、目を逸らして去っていく。
「あ……」
その後ろ姿に何と声をかければよいのか分からず、結月は見送る。美夜は尊大に腕を組んで言い放った。
「自分の立場が分かったでしょ。アンタは蔑まれるために生まれてきたの。幸せになるなんて許されてないんだから」
「……私、美夜姉さんが緋路仁様を好きだなんて知らなくて」
「はあ? 別に好きじゃないわ。ただ、アンタが好条件の男と結婚するのが許せないから奪いたいだけよ」
「そんな、何で……」
「何で? アンタは私が優越感を得るためだけの存在だからよ。忌み嫌われているだけの存在でいればよかったのに、この身の程知らず」
力任せに肩を押されてたたらを踏み、縁側から庭先に落ちる。玉砂利に尻もちを突きながら、去っていく美夜の凍てつくような視線に震えあがった。
「あ、はは……」
(泣くな、泣いちゃダメ)
母からは胎扱いされ、父からは家を繁栄させるための道具と見なされ、婚約者は後継者を産ませたら自分を捨てるつもりでいる。そして血を分けた姉には憎まれて。
消費されるためだけに生きているみたいだ。
心が折れる音が、耳元で聞こえた気がした。
そしてあっという間に、婚約発表の日を迎えることとなる。
婚約発表は、夏と冬の集まりと同じく離宮で執り行われることになった。
大輪の牡丹の刺繍に金箔の散った着物を着せられ、髪も結いあげられた結月は、控え室で縮こまる。生まれて初めて着る高価な着物は、糸の密度が高いせいかずっしりとして重い。まるで自分の心と比例しているようだ。
緊張のあまり固く握った拳は、爪が真っ白になっていた。
今日は結月と緋路仁の婚約発表のため、四家と政府の高官がこの離宮に集まっている。宴会場として使われていた大広間は一の間だけで五十畳を越えていたことを思い出し、その空間を埋めつくすほどの人々を前に婚約を宣言するのだと考えれば、結月の胃がキリキリと痛んだ。
「準備はできたかい? ……へえ」
控え室に顔を出した緋路仁は、めかしこんだ結月を一瞥し、感嘆の息を吐く。
「……様になるものだね」
不躾な視線を送られ、結月は縮こまる。姉に惹かれているはずの相手にジロジロと品定めされるのは気分がいいものではない。
それでも結月は大人しく緋路仁に手を取られ、初老の使用人に誘導される形で大広間の前まで辿りつく。今まで給仕で幾度となく開けてきた襖が、まるで地獄へ続く扉のように重たく感じられた。
「火乃守家次期当主、緋路仁様。ならびに次期当主の妻となられる結月様がご入場いたします」
初老の使用人の声が襖の向こうにかけられ、廊下の端に膝を突いて控えていた女中が、両側から開ける。ああ、覚悟を決める時がきたのだ。何もかも諦める覚悟を。
けれど襖の向こうに広がった景色に、結月は目を瞠った。
「……え……?」
大方想像していた通り、大広間にはズラリと四十近くの人間が整列していた。しかし驚いたのは、彼らが正座した状態で、こちらではなく上座に向かって深々と頭を垂れていたからだ。
そう、まるで――――神仏に祈るかのごとく。
「待ってたよ、結月」
白檀の柔らかい香りを伴って発せられたのは、低く澄んだ声。この持ち主を、結月はよく知っている。けれど、同時に知らないのだ。
右側の上手に座るのは、テレビや新聞で何度も目にしたことがある政府高官だ。顔を見なくても格好だけで分かるくらいの有名人である。
左にずらりと並んでいるのは、木蓮家の当主である時雨をはじめとする四家の当主。下手には両親や、美夜の姿もある。
彼らがい草の香る畳に額をすり合わせて顔を上げられないような殺気を、上座で放っている人物。その人を結月は知らない。今まで知らなかった、雪のように儚げで美しく優しい、悠の姿しか、知らなかったのに。
以前会った時より、前髪が少しだけ伸びただろうか。イエローサファイアの瞳にサラサラとかかっている。双眼の色に合った芒色の羽織は秋の訪れを感じさせ、時間の経過を結月に伝えた。