無能の乙女は麒麟の花嫁に望まれる
 ずっと不思議だった。火乃守、木蓮、金宮、水無瀬、どの本家の者でもない悠が、上等な着物を着ていること。木蓮家の当主に格上のような態度を取っていることも。

 でも、誰もが息を潜めてひれ伏している目の前の状況を見ていれば察する。彼は何か――――もっと神に等しい存在なのだと。

「はる……か……? どうして、ここに……」
「結月! 麒麟を司るお方に何と無礼な物言いを……!」

 下手に座っていた父親が思わず顔を上げ、結月に怒鳴る。しかしすぐに首筋に刃を当たられたような殺気が、悠から父に向かって浴びせられた。

「ひ……っ」
「無礼なのはお前だ。誰が発言を許した?」
「も、申し訳ございません……!」

 結月は父親が、泡を吹いて倒れるのではないかと思った。駆け寄ろうと一歩を踏みだしたタイミングで、今度は隣に立っていた緋路仁が、喘ぐように言った。

「……麒麟……? まさか、貴方様は……」

 麒麟。

 耳慣れた、けれど気高い存在に結月は零れ落ちそうなほど大きな瞳を揺らす。

(麒麟って……そんな、まさか……悠が、麒麟……!?)

 四百年もの間、現れなかった稀有な存在。けれどもし悠がそうだとすれば、大広間にいる全員がいまだに頭を垂れた状態なのも、木蓮家の当主が彼に敬語を使っていたことも説明がつく。

「黙っていてごめんね、結月」

 抜き身の刀のように鋭かった悠の雰囲気が、結月に話しかけたことで和らぐ。蜂蜜を垂らしたように甘い声色だった。

「成人である十八を迎えるまで、正式に麒麟であると発表するのは控えるよう時雨に言われていたんだ。だから今日まで僕の存在は秘匿され、後見である木蓮家のごく一部の人間しか知らなかった」

 時雨が顔を上げ、

「申し訳ありません」

 と声を紡ぐ。

「五年前に街中で偶然悠様をお見かけして以来、私の千里眼には麒麟であると見えておりましたが、成人して加護やお立場が安定するまでは、秘匿しておいた方がよいかと思いましたので」
「十八の誕生日である今日が待ち遠しかったよ」

 一日千秋の思いだったと呟く悠に、状況を整理することで必死な結月は祝いの言葉の一つも述べられない。ただただ驚愕と、これまでの疑問に対する納得の狭間で波にさらわれたように揉まれていた。

「ここへはずっと、後見である時雨に連れられて来ていたんだ。夏と冬の集まりでは四家の者が一堂に会する。麒麟である僕の加護を強化させるためにはこれ以上ない場所だからね」
「悠の持っている加護って……?」

 結月が口を開くと、悠は端整な顔に笑みを浮かべて嬉しそうに説明してくれた。

「僕の能力は、他人の持つ加護のコピーだ。相手が加護を使用するところを見れば、それを写しとって使用することができる。どんな術でもね。つまり、この大広間にいる者の加護は、一度目視さえすればすべて使えるってこと」
「それって、無敵なんじゃ……」
「結月にそう思ってもらえるのは嬉しいな。それで」

 砂糖菓子のように甘い声が、一段下がる。それに伴って、大広間の空気も氷点下まで冷えこんだ。

「いつまでお前は、結月の手を掴んでいるの」

 悠の凍てつくような視線が、緋路仁へと向けられる。正確には、結月の手を握った緋路仁の手にだ。
 あまりにも苛烈な怒りに当てられて、結月の婚約者である彼は口の中が渇いて仕方ないようだった。舌をもつれさせながらも、何故自分が麒麟の怒りを買っているのかと理由を考えているように見える。

「あ、や、その……」
「悠、あのね、今日は私と緋路仁様の、婚約発表の日で……」

 いくらか待っても、悠に気圧された緋路仁がまごついたままなので、結月は助け舟を出すことにした。

(ああ、でももしかしたら、私と緋路仁様が大広間に顔を出す前に、麒麟のお披露目の儀に目的が代わってしまったのかもしれない……)

 何せ四百年ぶりの麒麟の誕生なのだ。いくら四家の次期当主の婚約発表といえど、麒麟のお披露目に比べれば霞んでしまう。

 悠はにっこりと微笑んで口を開く。緋路仁と結月に対する彼の温度差に、そろそろ風邪を引きそうだ。しかしそんなことは口が裂けても言えないので、結月は悠の唇の動きを見守る。

「その婚約なら、なくなったよ」

「あ、やっぱり婚約発表は延期になったんだ」
「ううん。そこの男との婚約がなくなったんだ。結月」
「え……?」
「だから、もうそんな奴と手を繋がなくてもいいよ」

 有無を言わさぬ力で緋路仁と引き離され、悠に肩を抱かれる。距離が近くなったことで、グッと白檀の香りが強くなった。結月は慌てて彼の胸に手を突き、自分よりずっと背の高い悠を仰ぎ見る。

「待って、婚約がなくなったってどういう……解消したってこと……?」
「そうだよ。ねえ、そうだよね? 皆」

 大広間に悠の声が落ちると、それまでずっと恭しく頭を垂れていた者たちが顔を上げる。遠くで火乃守家の当主が面を上げて同意した。

「麒麟である悠様が、それを望むのならば」

 近くに立つ緋路仁が絶句する気配がする。火乃守家の当主が認めたということは、自分と緋路仁との婚約は本当に白紙になったのだろう。結月が困惑を露にすると、宥めるように悠が旋毛へ唇を落としてきた。

 しかし――……。

「お待ちください……! ご当主様! 折角次期当主となる緋路仁様との縁談が決まって我が家も安泰だと喜んでおりましたのに、こんなのあんまりですわ……! 娘には胎としての価値がありますのに! 何故……!」

 それまで息を潜めていたように沈黙していた母親が、悲愴な面持ちで叫んだ。父親は母親の後頭部を押さえて頭を下げさせる。

「おい、今口を出すな!」
「ですが、貴方……!」

 結月はなす術もなく、一連のやり取りを傍観する。出来事に対して思考が追いつかない。当事者なのにただ翻弄されるばかりで、まるで蚊帳の外だった。視線が自然と下がっていく。

「……『胎』か。なるほど、報告で聞いた通りだな」

 悠がぽつりと落とすように呟く。その声といったら、地を這うように低い。

「何故と言ったかな。何故結月とそこの男の婚約を解消させたか――――それは、結月には僕の花嫁になってもらいたいからだ」

 結月は弾かれたように顔を上げ、悠を見つめた。大広間がにわかにざわつく。室内の人々の反応を見るに、四家の当主や政府高官は事前に悠の考えを知っていたようだが、大半の人間は初耳のようだった。

 もちろん、結月も緋路仁も――――両親や美夜も、寝耳に水だ。

(待って、花嫁って……私が、悠の……麒麟の花嫁になるってこと……!?)

「結月が麒麟であるお方の花嫁に……っ!?」

 まさかの展開に、結月の母親は喜色を浮かべる。父親は唖然とした面持ちで悠と結月を見比べた。

「どう? 僕のお嫁さんになってくれるよね? 結月」

 悠に顔を覗きこまれた結月は、信じられない気持ちで彼を見つめ返す。霜の花のような睫毛に囲まれた目を和らげて微笑む悠は麒麟で、自分は今彼に求婚されて、それで……?

 事態が呑みこめない。溺れたような心地でいると、それまで静観していた美夜が耐えかねたように声を荒らげた。

「お待ちください、悠様……! 妹は受胎の加護を持っているとはいえ、火を操る朱雀の力を持たぬ出来損ないです。そんな子、麒麟たるお方の隣に立つなんて相応しくないわ。どうか私をお選びください」

 緋路仁の非難するような視線を無視して立ちあがった美夜は、甘えるように悠へしなだれかかる。その横顔は完全に女で、一目で悠の美貌の虜になったと分かる。

 しかしその手を、彼は容赦なく振り払った。パンッと甲高い拒絶の音が、大広間に響き渡る。

 これまでの人生で邪険にされた経験が乏しい美夜は、青天の霹靂と言わんばかりに表情を歪めた。

「お前やお前の両親が、家族でありながら結月に辛く当たってきたことは報告を受けて知っている。僕はそれを決して許しはしない。――――言っておくが」

 美夜の怒りに満ちた顔が結月に向けられたタイミングで、悠は声を張った。

「結月からは何も聞いていない。直接泣きついてくれればすぐにでもお前たちを消し炭にしたけれど、この子は優しいから。お前たちから冷遇されてもひたすら口を噤んで健気に耐えてきたんだ」

 回されていた悠の手が、労わるように結月の肩を撫でる。まるでよく我慢してきたね、と励まされているような気分になり、結月は唇を震わせた。

「火乃守家の当主にも力を貸してもらった。次期当主が結月を、子を産む機械のように使い捨てて――お前に乗り換えるつもりであることも、報告を受けている」

 緋路仁と美夜は計画が露見したことに揃って青ざめた。

「悠様、愚息に次期当主を任せるという考えは浅慮だったようです」

 火乃守家の当主は、息子である緋路仁と目を合わせずに言った。

「悠様の婚約者となる結月殿の両親と姉には本家も期待して多大な援助をしておりましたが、彼女へのこれまでのひどい仕打ちを考えると……火乃守家から除籍した方がよさそうですな」

 ワッと、母親が身も世もなく泣きだす。父は息が詰まったように蒼白になり、緋路仁は膝から崩れ落ちた。

 けれど美夜だけは、激しい憎悪を込めてこちらへと手を伸ばしてくる。

「……っアンタのせいよ、結月! アンタなんかが……!」

 不意に美夜の足元に真っ暗な影ができ、そこから妖魔が噴き出す。それが美夜の妖魔を操る術だと察した時にはもう、蜘蛛のように毛むくじゃらの化け物が結月に向かい襲いかかってきていた。

「きゃ……っ」
「大丈夫だよ、結月」

 耳元に優しい声が落ち、抱き寄せられて悠の胸に顔を埋める形で視界を覆われる。耳に届くのは悲鳴と何かが暴れる音。

 しばらくしてそれが止むと、抱擁も解けたので結月は恐る恐る周囲を見渡す。すると、美夜が操っていたよりも大きい龍のような獣が、彼女の胴を絞めあげていた。

「僕の加護は、他者の加護のコピーだと言ったはずだ」

 つまり悠は、美夜の加護をコピーし、同じように妖魔を操って彼女を制圧したのだろう。麒麟である彼の方が純粋に優れているため、出現させた妖魔も格上だったようだ。

「連れていけ」

 龍のような妖魔を足元の影に仕舞うと、悠は冷たく命じる。

 襖の付近に控えていた使用人は、昏倒した美夜ともう蒼白になって震えあがるばかりの両親、それからいまだに立てずにいる緋路仁を大広間から引っ張っていく。

「美夜姉さんは大丈夫なの……?」

 ひどいパニックに襲われながらも、結月が発した言葉は姉を案じるものだった。頭上から苦笑が落ちる。

「気絶させただけだよ。結月を傷つけた報いとしては、全然足りないけど。それより、ねぇ」

 雪のように美しい白髪を揺らし、悠は首を傾げて問う。

「僕のお嫁さんになってくれる? 結月」

 それはお伺いでありながら、決定事項だ。だって、火乃守家の分家の中でも末端である結月には、麒麟の願いを断る選択肢など与えられていないのだから。

 精巧な人形のようにズラリと正座して並んでいるギャラリーが、目線で訴えている。素直に頷けと。

「わ、私……」

(悠に会いたかった。ずっと恋しかった。私の好きな人は悠だから、この求婚は喜ぶべきことなんだけど……)

「待って。混乱してて……私……」

 頭痛がしてきた。額を押さえた結月は、不安げに瞳を揺らして尋ねる。

「悠と結婚するってことは……私の受胎の加護を、悠のために使うってこと……?」

 高い位置で、悠が目を丸くする気配がする。結月は暗い顔で続けた。

「私が麒麟との子を産んだら、悠の持つすごい加護を、そのまま受け継がせることができるから、だから緋路仁様じゃなく悠と結婚しろってこと、だよね……?」

 困惑を極めた頭が導き出した答えに、結月は消沈する。加護で誰かの役に立てるのは素晴らしいことだ。けれど同時に、想い人である悠にだけは、道具のように扱われたくなかった。

(でも、それは我儘だよね。私は、私にできることをしなくちゃ……)

 諦観に襲われながら、結月は覚悟を決めようとする。そこに、穏やかな声がかかった。

「違うよ。顔を上げて、結月」

 悠の大きな手が両頬に添えられて、上を向かされる。目が合った彼は、宝物を見るように優しい表情をしていた。

「君の受胎の加護は素晴らしいけど、そんな能力がなくたって別にいいんだ。結月と結婚できるなら」
「加護がなくてもいいなんて……じゃあ悠は、どうして私と結婚したいの……?」

 これまで誰からも、無能だからと蔑まれてきた。力がないから愛されなかった。でも、受胎の加護があると判明してからは利用価値があるから急に大切にされはじめた。相手に利得があるから。

 なのに悠は、加護がなくてもいいと言う。そんなの……。

「そんなの決まってる。結月のことが、好きだからだよ」

 一陣の風が吹き抜けて、灰色の世界が鮮やかに色づいた気がした。これまでずっと、呼吸を忘れたかのように息がしづらかったのに、肺に隅々まで酸素が行き渡る。

「……好き?」

「好きだよ。大好き。出会った時からずっと好きだった。麒麟として見出され、家族から引き離されて木蓮家に入り孤独だった僕に、麒麟としての誇りを与えてくれた君が。たとえ虐げられても、懸命に日々を過ごす強い君が、大好きだ」

「悠」
「この先も一緒に蛍を見たり、隣に並んで料理を作ったり、笑いあったりして過ごしたいんだ。君を笑顔にしたい。僕は結月がもう何も諦めなくていいように、結婚を決めたんだよ」
「……っ」

 眼前の美しい青年が、涙で歪む。きっと陽だまりのように優しい顔でこちらを見つめてくれているに違いないのに、ぼやけた視界のせいで分からないのが悔しい。

 結月が堪えていた涙を頬に伝わせると、鮮明になった瞳に映る彼の表情はやはり穏やかで。

「ねえ、だから僕の花嫁になって。幸せにするよ」

 額をコツンと合わせて微笑む悠に、結月は泣きながら微笑み返す。もう十分幸せな気持ちだ。

 麒麟のことは尊敬している。だけど……。

「私もね、たとえ麒麟でなくても悠が好きだよ」

 泣いているせいでたどたどしい口調になってしまったけれど、結月は思いの丈を懸命に紡ぐ。その言葉を聞いた悠は泣きそうな顔をして、そっと甘い口付けをくれる。

 それはまるで、結婚式での誓いのキスのように神聖で幸せなものだった。
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