わたしの大切なおとうと

【第二章.灰色の命日】

 ワゴン車の中は、薄暗く、窮屈だ。
 ここはどこ? どこかの山の中に、くるまは停められているようだ。ひどいタバコの匂いで、うまく息が出来ない。頼りのお母さんもお父さんもいない。そして中にいる小さな頃のわたしは、裸んぼにされている。窓に小さな手をついて外に向かって叫んでいる。窓ガラスの、温度のないひんやりとした感覚が手に伝わる。窓の向こうには、中学三年生のおとうとが居る。かいちゃんを呼んでいるのだ。助けて。助けて……と。
 ……ああ、これ。いつもの夢だ。はあ。またこの夢か。そう思いながらも、いつものように、窓ガラスを手で叩いてみる。……すると。かんっ、かんっ。……あれ? 手で叩く音じゃない。何か、硬いもの──例えば石とか金属とか──で叩いたような音だ。左手に何か違和感を感じて、その時初めてわたしは、左手に何かを握っていることに気がついた。ゆっくり開いて、見てみる。黒い柄に、まるいくるくるしたマーク……トヨタのエンブレムのついたくるまの鍵だ。

「なに……これ?」
「なんだと、思う?」

 思わず声を出したわたしに、かいちゃんが問いかけながら振り返った。

「ひっ!」

 思わずわたしは悲鳴をあげる。
 振り返ったかいちゃんの眼は……空っぽだった。

「なんでだと、思う?」
「かいちゃん……そのお目目……なに?」
「なんでだと、思う?」
「どうしてそんな……お顔をしているの?」
「なんでだと、思う?」

 眼球のない、空っぽの眼窩のかいちゃんは何度も抑揚のない声で、聞いてくる。

「どうしてそんなに……怒っているの?」
「なんでだと、思う?」

 わたしはだんだん怖くなって、窓ガラスから手を離した。
 音がなくなる。
 わたしの周りだけ、温度が下がっていく。

「なんでだと、思う?」
「わたしのこと、きらいなの?」
「なんでだと、思う?」
「どうして、死んじゃったの?」
「なんでだと、思う?」

 わたしは裸だ。白い息が出て、震えが止まらない。
 春のはずなのに窓は結露するほど冷たい。
 春のはずなのにかいちゃんの周りには霜柱が立っている。
 そして……いちばん知りたくないことを、口にしてしまった。

「かいちゃんが死んじゃったのは……わたしの、せいなの?」

 わたしがそう聞いたそのしゅんかん。
 がたん。
 また、いつものように地面が抜けて、わたしの世界一たいせつなおとうとは目の前から消えた。

「かいちゃーんっ!」

 みるみるピンクのワンピースのおとうとは小さくなって、植え込みの脇のコンクリートに頭から落ちた。
 ごんっ。
 ワゴン車にも届くくらい、大きくて鈍い音がした。
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