わたしの大切なおとうと

【第三章.わたしを呼ぶ声 】

 今令和何年? 何月何日? 何曜日? 今何時? わたし何歳だっけ?
 真っ白。真っ白な部屋。天井から床まで、全部真っ白。カウンセラーの先生の白衣も真っ白。
 全てが明るいこの部屋で、わたしは薄ぼんやりと笑っている。
 今日は退行催眠をかけてもらった。
 セラピーのひとつ、なんだって。

「なにしてるの? ねえ、おかあさん、なにしてるの?」

 かたかたかたかた。
 先生がキーボードを叩く。
 わたしには、四歳の時の記憶が見えている。
 まだ、みんなで南大沢に住んでいた頃の記憶だ。

「荒浜さん。どうしましたか」

 いつもの赤い縁のメガネのカウンセラーの先生が聞く。
 でも、さっきお昼寝するまでいたお母さんが居ない。

「わかんない。……おきたら、おかあさんとゆきひこ叔父さんがいる。なぎさ、いまドアのすきまからのぞいてるの」

 かたかたかたかた。
 わたしは息を飲んだ。

「なにが、見えますか」
「わかんない」
「ふたりは、どんな様子ですか」

 見てはいけないものを見てしまった感覚。
 自分の知らない世界を垣間見た、戸惑い。

 先生のメガネの奥の目が、少し見開かれる。
 かたかたかたかた。
 キーボードを打つ手が、心なしか早くなったように感じる。

「裸んぼ。ちゅうしたり、のしかかったり。……はくしゅんっ……あ、お母さんが近付いてきた。裸んぼの、お母さん。え……あのね、なぎさ起きちゃったの……ねえ、何してるの……? かいちゃん? うん、まだ寝てるよ……うん……うん。わかった」

 そうだ。あの日。お母さんは確かに言ったのだ。

 かたかたかたかた。

「何と、言われたのでしょう」
「おとうさんとかいちゃんには、ないしょだよ、だって。おまえみたいないらないこは、おとなになったら、そうやってとるといいよ、だって」

 要らない子、と言ったのだ。

 かたかたかたかた。

「なにを、とるのでしょう」
「わかんない。……なんかきもちわるくなってきた」
「大丈夫ですか」
「なぎさ、はきそう。う……うええっ。げえっ。ごほっごほっ」

 先生がわたしを覗き込んで、背中をさする。

「荒浜さん? 大丈夫? 荒浜さーん? ……今日はこの辺りにしましょう」

 真っ白な部屋なのに、わたしの血混じりの吐瀉物で汚れてしまった。綺麗な部屋の中にあるきたない汚れ。
 まるで、わたしみたいだ。きたないきたない。いらない、いらない。

 イラナイ、わたし。

 カウンセラー室の床を汚しながら、ふと、そう思った。
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