わたしの大切なおとうと
 六月十日。月曜日。午前九時ちょうど。わたし、十六歳。

「誰か落ちたぞー!」

 梅雨の間の蒸し暑い午前中。グラウンドから体育教師や生徒たちの大声が上がる。二階の教室にいたわたしも窓から見下ろす。植え込みの脇のコンクリートに落ちたようだ。植え込みの下にスカートから伸びる白い足が見える。

 ……あの時と、同じだ……!
 わたしは、考えるより先に駆け出していた。

「おねえちゃん……うち……うち……もうだめかもしんない」

 あの言葉。あの声。あの日。かいちゃんが死んでしまう直前。わたしのスマホに残した留守番電話と同じものだった。だから、いま、落ちたのはかいちゃんだ。間違いない。どうして今更そんなふうに考えたのか、ぜんぜんわからないけれど、絶対の確信が持てた。
 廊下を駆け抜けた。階段を二段飛ばしで駆け下りた。昇降口から上履きのままで飛び出した。わたしは、ありったけの全速力で落ちたおとうとのそばに走った。既に先生が二名、駆けつけて呼びかけている。その二人を突き飛ばすようにすがりついた。

「かいちゃんっ!」

 わたしは涙を散らして泣きながら叫んだ。

「かいちゃん、かいちゃん!」

 必死に揺さぶる。けれどその子は……
 かいちゃんじゃ、なかった。
 この高校の制服の……学年は……胸元の校章バッヂが赤い。えと、つまり一年生だ。

「荒浜、荒浜っ! どきなさい、どくんだ! 救急処置をしないと」

 体育の先生に引き剥がされた。赤い縁のメガネが隣りに落ちている。おでこを擦りむいている。おかっぱで、頭の良さそうな子。そんな印象を受ける子だった。
 さっきの電話は、この子がしたんだろうか。……ううん、そんなわけない。あの少し舌っ足らずな声。じぶんを「うち」と呼ぶ癖。……そもそもこの子に、ケータイの電話番号を教えた覚えは無い。

 そうこう思案を巡らせているうちに、遠くから救急車の音が近づいてきた。商業都市南大沢の、それも大きな幹線道路に近い学校だ。思っていたよりも早く到着した。先生の一人が、大急ぎで校門を開けて、校庭の方に救急車を誘導する。すぐ近くまで乗り込んできた命を守る白いくるまは、彼女が落ちたすぐ近くまでやって来て、サイレンを止めた。数人の救急隊員がストレッチャーを引いて駆け寄る。

「わかりますか。わかりますかー」

 どうやら生きてはいるらしい。救急救命士が頸椎を損傷しないように、頭を両手で固定しながら耳元で大きな声で呼びかけている。わたしは三歩さがってその様子を見守る。
 ふと、その子の唇が微かに動いた。

「……かいり……」

 小さな声で、でも確実に。
 自殺未遂をしたその子は確かにそう、言った。
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