わたしの大切なおとうと
 令和六年六月七日。金曜日。午前四時三十五分。わたし、十六歳。
 仄暗い天井。夜が明けたばかりの灰青色の光が差す窓。いつもの悪夢を見て、()()()は目を覚ます。ちゅっちゅ。この歳になってもわたしは指しゃぶりが治らない。()()()からずっと、この夢を見るのだ。時計を見る。朝の四時半だ。わたしは親指を口から外し、半袖の夏服のシャツに袖を通して、胸元にリボンをつけて、髪をハーフアップに結んだ。いつもの、わたしのスタイル。そして、学習机にかけて数学の教科書を開いた。

 ……わたしの名前は荒浜なぎさ。東京都は西部の山の中。多摩ニュータウン、南大沢の都立高校に通う高校二年生。おしゃれに興味はある。彼氏だって欲しかった。このハーフアップだって結構似合ってると思うし、スカートもなるべく短くしている。でも、毎日が灰色で。生きている実感がひとつも湧かなかった。
 そんなわたしに昨日、ようやく彼氏が出来た。ひとつ歳下の、サッカー部の期待の新人、森田りく……りっくん。昨日、急に告白された。びっくりしたけど、さわやかでとってもハンサムで……告白を受け入れた。わたしは、自分の灰色の人生にこの日、色彩が戻ってくるのを感じることが出来た。
 今日は一緒に帰る約束をしている。校門のところで、待ち合わせ。

「お待たせ」
「ううん、俺も今来たとこ」

 彼は白い歯を見せて笑った。

 ……

「どうしてこんなわたしに声をかけてくれたの?」

 ぐおーん。バスはエンジンを吹かして加速する。紺色をまとった京王バス。一緒に帰る車内で、聞いてみた。
 顔はふつう。成績は中の下。部活も帰宅部。サッカー部のエースとは、ぜんぜん釣り合わないもの。

「見かけたんだ、なぎちゃんの教室で」

 二人がけの青い座席。りっくんは照れくさそうに、膝に乗せた学生カバンを見た。日本代表のヤタガラスのバッヂがつけてある。……代表、なりたいよね。応援、してる。

「今にも落ちちゃいそうだったから……放っておけなかった」
「あの窓だよね。うん。飛ぼうと思ってたの」
「え?」

 彼は無邪気な顔で聞き返してこちらを向いた時。わたしはいつもの笑顔を貼り付けていたから気づかれなかった。

「なんて?」
「ううん、なんでもない」
「南大沢駅、南大沢駅終点です」

 わたしの声を運転手さんのアナウンスが遮った。わたしたちはバスを降り、年中人で溢れている南大沢の改札をくぐった。

「さようなら」

 わたしは短くそう言うとりっくんとは反対の、新宿方面のエスカレーターに、吸い込まれるようにして乗り込んだ。
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