わたしの大切なおとうと
 令和六年七月三日。水曜日。午前十一時三十一分。わたし、十六歳。
 きーんこーんかーんこーん。

「はい、そこまでー。後ろから回収ー」

 担任の酒田先生が、号令をかける。後ろから回ってきたテスト用紙を前に回す。

「……ふぅぁあ、終わったー……」

 わたしは思いっきり伸びをした。
 最後の英語のテストが終わり、一学期の全ての期末テストが終わった。今回のテスト期間は長く感じた。とても。
 ……かいちゃんが亡くなって、そのことから目を逸らして、逃げるようにバイトを始めて、帰ったら疲れ果てて寝て、早朝に悪夢を見て起きて……勉強をやる時間が、その早朝しかない。それも眠くてだるくて集中が全然上手くできない。そしてそのまま、登校の時間になる。
 悪循環だ。授業中は、疲れから居眠りばかり。最近はお腹が妙に張って、気持ち悪くてだるくて体育も見学ばかり。目立つぽっこりお腹が嫌で、水着が着れない。
 だから、成績はずるずると落ちていった。今日の古文と日本史、そして英語も、解答欄は空白だらけ。赤点ぎりぎりだろう。
 それでも、わたしは毎日がぐしゃぐしゃで。つらくてつらくて。成績のことや進路のことについて考える余裕は、どこにも無くなっていた。
 このまま、時が止まったお母さんと、二人で、わたしはどうなるのだろう。誰の手助けも要らない。誰にも干渉されたくない。放っておいて欲しい。けれど、このまま二人でいたら、永遠に目の前が晴れない気がして、不安で押しつぶされそうになる。
 だから、せめてお母さんの前では、かいちゃんを演じる。わたしの代わりに泣いてくれるお母さんを見ていると、どうしてか、許されたように感じる。その時だけ、生きてて良いと言われているような気がする。
 わたしの前途は、真っ暗だった。

 ……

 そんなことを、ひたすら考えながら、テストが終わった気だるい放課後の廊下を歩く。
 あれ? わたし、どこに行こうとしたんだっけ。気がついたら……

 プールに続く、男子更衣室の前で立っていた。

 それも、今まさに手をかけてそのドアを開けようとしていたのだ。テスト期間で水泳部が居なくてよかった。わたし、何してたんだろう。

「先輩。荒浜先輩」

 急に呼ばれて、反射的に更衣室の戸から手を離して振り返る。廊下の向こうに、車椅子に乗って、お母さんに押されてる子がいる。
 澄んだ、鳥のさえずりのような、とっても綺麗な声。あの顔は、知ってる。白鷺みそらさんだ。退院したんだ。良かった。……知らない子のはずなのに、心の底から安心できた。

「思い出しませんか」
「え?」

 廊下の向こうから、その綺麗な声で問いをかけてきた。

「思い、出しませんか……と、聞いています」
「……思い出すって?」

 でも、白鷺みそらさんは答えない。じいっと、わたしを見てくる。
 あなた……わたしの何を知ってるの? ねえ……
 何か全てを見透かされてるみたいで、わたしはとても怖くなった。だから逃げるように、きびすを返して昇降口の方へ早足で歩いた。
 けれど、わたしを見つめるその視線は。
 背中に刺さって、いつまでもいつまでも抜けなかった。
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