わたしの大切なおとうと
 平成二十三年五月十六日。月曜日。午前九時二十七分。わたし、四歳。かいちゃん、三歳。
 幼稚園をお休みして、お母さんに連れられて、小児科へ行った。
 あれから血が止まらなくて、ティッシュをお母さんにねじ込められた。痛くて痛くてたまらないけど、どうしてか、お母さんは泣くとほっぺたを叩く。だから、もう泣くのはやめにした。
 泣かない強い子になれば、お母さんは優しいお母さんにもどってくれる。そう思って耐えることにした。

 ……

 お医者さんの鈴木先生──お母さんより若い、女の先生──は、わたしの傷を見て、絶句した。

「どうしてすぐに連れてこなかったんですか!」

 お医者さんはお母さんをとっても大きな声で怒った。

「この子にとってこんなに大きな傷を負うことが、どれほど負担になっているか。身体的にはもちろん、精神的にも。警察に連絡します」
「待ってください、治療はして欲しいけれど、警察は待ってください」

 お医者さんは、赤いメガネの奥で、目を見開いた。

「お母さん、何を仰っているかわかってますか」
「わかります。わたしがそうでしたから。ずっと、父親に性的虐待を受けてました。この子も、父の子なんです」
「は……?」

 お医者さんが、また絶句する。

「夫には内緒にしておいて下さいね。わたしは、小学生の頃から父に逆らえません。初めては小学二年生の時でした。今も、実家に帰ると相手をさせられます。信じられないかもしれませんけど。……かいりは、間違いなく夫の子ですが、この子は、父の子なんです」

 わたしは、何をお母さんが言っているのかわからない。父って、おとうさん……じゃないの? お母さんのお父さん……って、所沢の、あのおじいちゃん……?

 なぎさは、おじいちゃんとおかあさんのこどもなの?

「もう、ずっとずっと、地獄みたいな人生でした。この子にもそれが遺伝してしまった。私の地獄が、この子にも。だから諦めました。もう、私もこの子も、この先は地獄しかないんです」
「……お母さん、お母さんにとってはそうかもしれませんが……医者として、この子の受けた暴力は見過ごせません」
「いいって、言ってるじゃないですか。もう、仕方の無いこと。もうこの子に、先はないんです」

 その後も、しばらくけんけんがくがくとやり取りがあったけど、警察に言ったら訴えますからとヒステリックに怒鳴って、その後はお医者さんは何も言えなくなってしまった。
 治療の最後に、八王子市の性暴力ホットラインの案内の紙だけ渡して、その日は終わりになった。

 ……

 帰りのくるまの中で。今日は朝から雨だった。ぽつぽつと、雨の雫がくるまの屋根を叩いた。

「おかあさん……なぎさのおとうさんって、ところざわのおじいちゃんなの?」
「そうだよ」

 ウイーン、ウイーン。ワイパーが右に左にいったりきたり。

「なぎさのこと、すきじゃないの?」
「……」

 ウイーン、ウイーン。

「ねえ、なぎさのこと、すき?」
「……」

 ウイーン、ウイーン。

「……おとうさんに、いってもいい?」
「なぎさの好きにすればいいよ。もうじきに、お母さん出てくからね」
「でてく……?」

 ウイーン、ウイーン。
 くるまは、いつの間にか家に着いていた。

「……ねえ、なぎさのこと、すき……?」

 お母さんは、ハンドルに顔を埋めて、叫ぶように言った。

「好きだったら、好きだったらどんなによかったか!」

 そして、わたしの方を向き直り、言った。

「おまえみたいな要らない子、産みたくなかったよ、ほんとは!」

 はっきりと、そう、言った。
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