【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
7
夫は泊まる宿に到着してもまだ調子が悪そうだった。
ぐったりした夫を使用人と一緒に抱えて部屋まで運んで、ご飯を食べさせてベッドに寝かせる。
手伝ってくれた使用人はエルシャのやたら元気そうな様子に訝し気な視線を向けてきたが、エルシャはお世話ができたので気にならなかった。
完璧に見えていた夫がまさかこんな人だったなんて! いい、とても良い。必死で毛を逆立てている野良猫みたいで!
「領地に向かう日程は遅れていないだろうか」
夫の側で鼻歌を歌いながらリンゴを剥いていたエルシャは、弱弱しい夫の声に顔を上げた。
「遅れていないので大丈夫です」
エルシャが剥いたリンゴを差し出すと、起き上がって素直に口を開ける夫。
その時、エルシャは猛烈に感動してしまった。今までで最も夫婦らしい瞬間かもしれない。記憶喪失になってからの方が夫婦らしいだなんて。
結婚も白いのだが、記憶まで真っ白になったのはむしろリスタートということで良かったのかもしれない。このまま夫の記憶が戻らなくってもいいくらいだ。
それか、夫が素直に口を開けるようになったのはさっきの馬車の件が大きいだろうか。あんなに体調の悪い姿を見せたら、口開けるくらいなんともない、ってことかしら。
「私はどうしてあなたに契約結婚を持ち掛けたのだろうか」
エルシャがちょうど結婚について考えていた時、夫も同様のことを考えていたようだ。これがシンクロニシティというものだろうか。
「何も思い出しませんか?」
「仕事はなんとかこなせたが、この結婚については何も思い出せない。リチャードからもいろいろ聞いたが」
夫は骨折していない方の手を悩まし気にこめかみにあてている。
馬車で変な体勢だったから、肩も揉んだ方がいいかもしれない。リンゴを突き刺したフォークを持った手をまたワキワキさせそうになって慌ててやめた。
「女除けとしか聞いておりません。旦那様の人気はそれはもう凄かったので。ただ、契約結婚の前に会話したこともなかったので……旦那様が本当のことを仰ったのかは分かりません。他に理由があったのかもしれませんし……」
「そうか」
「でも実家への援助は大変助かっています。ありがとうございます」
「いや……私も今日まであなたにとても手間をかけている。仕事も世話も。申し訳ない」
す、すごい。夫とこんなに会話をした経験がエルシャにはない。つまり初体験だ。
そもそもこの人こんなに喋るのね。
「私は長女ですし、旦那様の契約妻ですから当然のことです!」
元気よく口にするエルシャに夫は少しだけ笑った。
やっぱり記憶は戻らなくっていいかな、なんてエルシャは思った。夫のことを考えるなら、夫の父親が亡くなった馬車事故のことも忘れていれば彼は幸せなのにと思わなくもない。
***
書類上の妻は早々に執務室から追い出す予定だった。
そもそも、リチャードや長く一緒にいた使用人以外の人間が執務室に居座っているのが落ち着かなかった。
しかし、リチャードに何度も窘められてしまった。致命的なミスをすれば仕事を任せられないとすぐに追い出せるだろう。そう思って書類をチェックしても、なかなかあの女はミスをしない。字も読みやすい。
実家が貧乏伯爵家だから教育まで手が回らず、マナーが精一杯でこの女には大して学がないはずだ。それなのにこれはどういうことだ。母が教育してあの女はそれを身に着けたのか。
教育の機会がなかったのならば、できないのは当然のことだ。執務室から落ち着かない原因の異物を追い出したいだけで、できないことを責めるつもりは全くない。追い出す言い訳にしたいだけだ。
むしろ、下手に知識だけある方が厄介だ。実務もやったことがないのに、知識だけをふりかざして理想論を語るのはやめてほしい。経験もないのにこれは無駄だのパフォーマンスが悪いのだのと口を挟むのも。
結局、領地に向かうまでにリヒターは書類上の妻を執務室から追い出せなかった。その代わり、足が治ったため彼女から逃げ回る羽目になった。
なぜって、どう接したらいいか分からないのだ。記憶はないが、彼女にはすでに十分に失礼な態度を取っている。それなのに嬉々として近付いて世話をしてくるから意味が分からないのだ。
リヒターの脳裏にいつもあるのは父を亡くして傷ついた母の姿だ。父の浮気の件だけは隠したので知られていない。
夫を亡くして憔悴していく母の姿は見ていられなかった。どうして、リヒターはあの日父が死ねばいいなんて思ってしまったのだろう。思わなかったら父は今も生きていたかもしれないのに。
浮気していることなんて、父が生きていてくれることに比べたらどうでも良かったんだろうか。父が他の女を妊娠させていても? それでも生きていてくれる方が良かっただろうか。
それなら、あの時父が死なずにリヒターが死ねば良かったのだろうか。
こんな自分のことだ。どうせ書類上の妻のことだって傷つけて悲しませてしまうに違いない。それなら最初から接しなければいい。どうしても結婚する必要はあったようだが、金のつながりだけなら書類上の妻だってリヒターがどうなろうとどうしようと悲しまないだろう。
書類上の妻を避けていた理由はきっとこれだ。
しかし、おかしな点がある。婚約が決まってから急にリヒターは深夜まで仕事をし始めたらしい。護衛を途中までしかつけずに外出も増えた。
記憶はないが、調べてみても深夜までかかるような仕事量ではない。外出もそこまで頻繁にしなくていいはずだ。それなのに一体この二年間のリヒターは何をしていたのだろう。
まさか、浮気したのか。自分に愛人でもいるのか? あれほど父の浮気を汚いと嫌悪したのに?
記憶がないことが初めて恐ろしくなった。
自分は一体、深夜まで何をしていたのか。余計に書類上の妻の顔さえ見れなくなった。
しかし、母の策略で領地に行かされることになってしまった。何年も領地は人任せであるし、公爵邸にいても愛人狙いの貴族がうるさくて大変だと母に言われれば行くより他になかった。
馬車で向かいに座っている書類上の妻は、とても楽しそうだ。彼女は結婚してから社交以外で出かけたことはないからだろう。
罪悪感で少しばかり話を振った。しかし、途中で馬車が止まって馬車の事故と聞こえただけで嫌な記憶が蘇る。
息がうまくできなかった。足元から冷たさが這い上がって来る。父とあのメイドが死んでいた光景が蘇るのだ。父は目を閉じていたはずなのに、なぜか記憶の中の父はボロボロの状態でこちらを見つめてくるのだ。
隣に温かさを感じてそれに縋った。
その温かさが書類上の妻であると何となくは分かっていた。母は孫欲しさにおかしな画策をしているようだが、彼女になるべく接しない方がいいということも理解している。どうせ傷つけてしまうのだから。しかし、それよりも恐怖が勝ってしまった。
孤独の冷たさにリヒターはもう一人で抗うことはできなかった。
記憶を失っているんだからいいじゃないか。この二年間を何も思い出せないのだから。
あれほど情けない姿を見せても、宿に到着しても、書類上の妻は相変わらず嬉々として世話を焼いてきて温かかった。
うっかり素直に口を開けてリンゴを食べてしまった。「長女」だの「契約妻」だの平気で口にする書類上の妻を見て、リヒターは己を恥じた。
自分は一人で戦っていると思っていた。孤独に。
でも、孤独を感じるのはいつも誰かの隣にいる時だった。これまでは特に母だった。こんなに温かい書類上の妻といても、自分は最も孤独を感じているのだから。
ぐったりした夫を使用人と一緒に抱えて部屋まで運んで、ご飯を食べさせてベッドに寝かせる。
手伝ってくれた使用人はエルシャのやたら元気そうな様子に訝し気な視線を向けてきたが、エルシャはお世話ができたので気にならなかった。
完璧に見えていた夫がまさかこんな人だったなんて! いい、とても良い。必死で毛を逆立てている野良猫みたいで!
「領地に向かう日程は遅れていないだろうか」
夫の側で鼻歌を歌いながらリンゴを剥いていたエルシャは、弱弱しい夫の声に顔を上げた。
「遅れていないので大丈夫です」
エルシャが剥いたリンゴを差し出すと、起き上がって素直に口を開ける夫。
その時、エルシャは猛烈に感動してしまった。今までで最も夫婦らしい瞬間かもしれない。記憶喪失になってからの方が夫婦らしいだなんて。
結婚も白いのだが、記憶まで真っ白になったのはむしろリスタートということで良かったのかもしれない。このまま夫の記憶が戻らなくってもいいくらいだ。
それか、夫が素直に口を開けるようになったのはさっきの馬車の件が大きいだろうか。あんなに体調の悪い姿を見せたら、口開けるくらいなんともない、ってことかしら。
「私はどうしてあなたに契約結婚を持ち掛けたのだろうか」
エルシャがちょうど結婚について考えていた時、夫も同様のことを考えていたようだ。これがシンクロニシティというものだろうか。
「何も思い出しませんか?」
「仕事はなんとかこなせたが、この結婚については何も思い出せない。リチャードからもいろいろ聞いたが」
夫は骨折していない方の手を悩まし気にこめかみにあてている。
馬車で変な体勢だったから、肩も揉んだ方がいいかもしれない。リンゴを突き刺したフォークを持った手をまたワキワキさせそうになって慌ててやめた。
「女除けとしか聞いておりません。旦那様の人気はそれはもう凄かったので。ただ、契約結婚の前に会話したこともなかったので……旦那様が本当のことを仰ったのかは分かりません。他に理由があったのかもしれませんし……」
「そうか」
「でも実家への援助は大変助かっています。ありがとうございます」
「いや……私も今日まであなたにとても手間をかけている。仕事も世話も。申し訳ない」
す、すごい。夫とこんなに会話をした経験がエルシャにはない。つまり初体験だ。
そもそもこの人こんなに喋るのね。
「私は長女ですし、旦那様の契約妻ですから当然のことです!」
元気よく口にするエルシャに夫は少しだけ笑った。
やっぱり記憶は戻らなくっていいかな、なんてエルシャは思った。夫のことを考えるなら、夫の父親が亡くなった馬車事故のことも忘れていれば彼は幸せなのにと思わなくもない。
***
書類上の妻は早々に執務室から追い出す予定だった。
そもそも、リチャードや長く一緒にいた使用人以外の人間が執務室に居座っているのが落ち着かなかった。
しかし、リチャードに何度も窘められてしまった。致命的なミスをすれば仕事を任せられないとすぐに追い出せるだろう。そう思って書類をチェックしても、なかなかあの女はミスをしない。字も読みやすい。
実家が貧乏伯爵家だから教育まで手が回らず、マナーが精一杯でこの女には大して学がないはずだ。それなのにこれはどういうことだ。母が教育してあの女はそれを身に着けたのか。
教育の機会がなかったのならば、できないのは当然のことだ。執務室から落ち着かない原因の異物を追い出したいだけで、できないことを責めるつもりは全くない。追い出す言い訳にしたいだけだ。
むしろ、下手に知識だけある方が厄介だ。実務もやったことがないのに、知識だけをふりかざして理想論を語るのはやめてほしい。経験もないのにこれは無駄だのパフォーマンスが悪いのだのと口を挟むのも。
結局、領地に向かうまでにリヒターは書類上の妻を執務室から追い出せなかった。その代わり、足が治ったため彼女から逃げ回る羽目になった。
なぜって、どう接したらいいか分からないのだ。記憶はないが、彼女にはすでに十分に失礼な態度を取っている。それなのに嬉々として近付いて世話をしてくるから意味が分からないのだ。
リヒターの脳裏にいつもあるのは父を亡くして傷ついた母の姿だ。父の浮気の件だけは隠したので知られていない。
夫を亡くして憔悴していく母の姿は見ていられなかった。どうして、リヒターはあの日父が死ねばいいなんて思ってしまったのだろう。思わなかったら父は今も生きていたかもしれないのに。
浮気していることなんて、父が生きていてくれることに比べたらどうでも良かったんだろうか。父が他の女を妊娠させていても? それでも生きていてくれる方が良かっただろうか。
それなら、あの時父が死なずにリヒターが死ねば良かったのだろうか。
こんな自分のことだ。どうせ書類上の妻のことだって傷つけて悲しませてしまうに違いない。それなら最初から接しなければいい。どうしても結婚する必要はあったようだが、金のつながりだけなら書類上の妻だってリヒターがどうなろうとどうしようと悲しまないだろう。
書類上の妻を避けていた理由はきっとこれだ。
しかし、おかしな点がある。婚約が決まってから急にリヒターは深夜まで仕事をし始めたらしい。護衛を途中までしかつけずに外出も増えた。
記憶はないが、調べてみても深夜までかかるような仕事量ではない。外出もそこまで頻繁にしなくていいはずだ。それなのに一体この二年間のリヒターは何をしていたのだろう。
まさか、浮気したのか。自分に愛人でもいるのか? あれほど父の浮気を汚いと嫌悪したのに?
記憶がないことが初めて恐ろしくなった。
自分は一体、深夜まで何をしていたのか。余計に書類上の妻の顔さえ見れなくなった。
しかし、母の策略で領地に行かされることになってしまった。何年も領地は人任せであるし、公爵邸にいても愛人狙いの貴族がうるさくて大変だと母に言われれば行くより他になかった。
馬車で向かいに座っている書類上の妻は、とても楽しそうだ。彼女は結婚してから社交以外で出かけたことはないからだろう。
罪悪感で少しばかり話を振った。しかし、途中で馬車が止まって馬車の事故と聞こえただけで嫌な記憶が蘇る。
息がうまくできなかった。足元から冷たさが這い上がって来る。父とあのメイドが死んでいた光景が蘇るのだ。父は目を閉じていたはずなのに、なぜか記憶の中の父はボロボロの状態でこちらを見つめてくるのだ。
隣に温かさを感じてそれに縋った。
その温かさが書類上の妻であると何となくは分かっていた。母は孫欲しさにおかしな画策をしているようだが、彼女になるべく接しない方がいいということも理解している。どうせ傷つけてしまうのだから。しかし、それよりも恐怖が勝ってしまった。
孤独の冷たさにリヒターはもう一人で抗うことはできなかった。
記憶を失っているんだからいいじゃないか。この二年間を何も思い出せないのだから。
あれほど情けない姿を見せても、宿に到着しても、書類上の妻は相変わらず嬉々として世話を焼いてきて温かかった。
うっかり素直に口を開けてリンゴを食べてしまった。「長女」だの「契約妻」だの平気で口にする書類上の妻を見て、リヒターは己を恥じた。
自分は一人で戦っていると思っていた。孤独に。
でも、孤独を感じるのはいつも誰かの隣にいる時だった。これまでは特に母だった。こんなに温かい書類上の妻といても、自分は最も孤独を感じているのだから。