【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
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「こんなにアップルパイを食べるのは初めてです。なんだか落ち着かないですね」
「明日に回してもいい」
エルシャの前にはアップルパイがホールの四切れもある。
弟妹たちと取り合いにならないアップルパイは人生で初めてだ。
「それにしても旦那様、もう十三回だなんておかしくないですか」
「あなたは今日二十回だったじゃないか」
「私は圧倒的に圧勝したかったんです!」
「そこは圧勝だけでいいんじゃないだろうか」
「全然です。倍以上の回数で勝ちたかったのに!」
石が跳ねた回数に文句を言いながら、エルシャはアップルパイを口に運ぶ。
さすが公爵家だ。実家とは異なり、生クリームまで添えられている。
「クリームがついている」
「へ?」
夫が自分の口の端をトントン示すので、エルシャは慌ててナプキンで拭った。
ナプキンにほんの少しクリームがついている。
夫が怪我をしている時はいつもエルシャが拭っていた。そのことを思い出してやはり治ってしまった怪我に未練が残る。自分の口の端を拭いたって何にも面白くない。
いや、まだ夫には記憶喪失があるではないか。
記憶喪失がある、という言い方は正しくないかもしれないが夫は可哀想だ。うん、とっても可哀想だ。だって訳もわからない女を妻だと言われ、庇った理由も分からず怪我をしていて、一緒に住んでいかなければいけないのだから。
「そういえば、ある伯爵家が通行料を上げると言ってきた。取引でどうしても通らなければいけないルートだ」
エルシャが黙ってしまったせいか、夫は唐突に仕事の話をし始めた。
「あぁ、お義母様から手紙がきていたのはそれでですか」
「そうだ。別に上げられてもいいのだが上げる理由に正統性がない。無駄に金がかかることになる」
「そうですねぇ、嫌がらせか何かですか?」
「まぁ……そうだろうな」
あの伯爵家は裕福なはずだから……まさか、第二夫人や愛人や次の妻にって言われたのを夫が断ったのかな。
「じゃあ、違う領を通りますか? お隣の子爵領を通るとか。あそこの子爵夫人とは以前お茶会で一緒だったのですが、面白いレースを自領で作っておいでで。あれは流行りそうだなと勝手に思っていて取引ができるならそれを口実にルートを変更して」
そこまで口にしてエルシャはハッとする。
父は一緒に食事をしながら仕事の話を愚痴るのだが、女に口を出されるのは好まなかった。ただ黙ってうんうんと頷いて聞いて欲しかったらしい。ついでに「お父様は大変ですね」とか「お父様はそんなお仕事を。凄い」とか言って欲しかったらしい。嫁いでからそれをうっかり失念していた。
「旦那様、申し訳ありません」
「なぜ、あなたが謝る?」
急に頭を下げたエルシャに夫は怪訝そうな表情だ。
夫の表情変化はわずかだが、何となく読めるようになってきた。以前ならこれをただの不機嫌と見ていただろう。
「知ったかぶりをして旦那様のお仕事に口を出してしまいましたので」
「いや、あなたの案を前向きに検討しよう。値上げを受け入れて伯爵に舐められるのも癪だし、子爵領を通るのに大義名分は必要だから助かった」
エルシャは高速で瞬きした。
夫はもうエルシャを執務室から追い出すことはないが、こんなに口出しを許す人だったのか。やっぱりこれは記憶喪失だから? 仕事量がおさえられたから? あーんな姿やこーんな姿を見たから?
「それは……お役に立てて良かったです?」
夫は満足げに紅茶を飲んでいる。エルシャはまた高速で瞬きした。エルシャの様子に夫は気付いたらしい。
「どうかしたのか」
「旦那様は仕事に口を出されるのは嫌なのかと思っていました。以前は用事があっても執務室に入れていただけなかったので、てっきり」
「……きちんとした知識も情報もないのに無責任に口を出されるのは嫌いだが……あなたはそうではない。勉強してくれたことは書類を見れば分かる」
おぉぉぉ、これは褒められた? 褒められている?
「えへへへ。ありがとうございます」
相変わらず夫とは寝室は別である。うなされていないかだけは確認するが。
その日はなぜかベッドにバラの花びらが撒かれていた。なぜだろう、お誕生日だからお風呂に浮かべるために集めて余ったのを撒いてくれたのかな。今日バラのお風呂だったし。
夫が挙動不審に差し出してきたミモザはすでに花瓶に飾られている。それを見てエルシャは幸せな気分で眠った。
来客があったのはエルシャの誕生日の翌日のことだった。
エルシャは義母に近況報告の手紙を書いていたが、屋敷が騒がしいのを疑問に感じた。
「またネズミでも出たのかしら」
窓の外を見ても馬車はいないようだ。
今日は来客の予定などなかったはず。ユーグさんでも訪ねてきたのだろうか。奥様の容態が悪くなっていないといいけれど。
エルシャは夫のいる執務室に向かった。
「明日に回してもいい」
エルシャの前にはアップルパイがホールの四切れもある。
弟妹たちと取り合いにならないアップルパイは人生で初めてだ。
「それにしても旦那様、もう十三回だなんておかしくないですか」
「あなたは今日二十回だったじゃないか」
「私は圧倒的に圧勝したかったんです!」
「そこは圧勝だけでいいんじゃないだろうか」
「全然です。倍以上の回数で勝ちたかったのに!」
石が跳ねた回数に文句を言いながら、エルシャはアップルパイを口に運ぶ。
さすが公爵家だ。実家とは異なり、生クリームまで添えられている。
「クリームがついている」
「へ?」
夫が自分の口の端をトントン示すので、エルシャは慌ててナプキンで拭った。
ナプキンにほんの少しクリームがついている。
夫が怪我をしている時はいつもエルシャが拭っていた。そのことを思い出してやはり治ってしまった怪我に未練が残る。自分の口の端を拭いたって何にも面白くない。
いや、まだ夫には記憶喪失があるではないか。
記憶喪失がある、という言い方は正しくないかもしれないが夫は可哀想だ。うん、とっても可哀想だ。だって訳もわからない女を妻だと言われ、庇った理由も分からず怪我をしていて、一緒に住んでいかなければいけないのだから。
「そういえば、ある伯爵家が通行料を上げると言ってきた。取引でどうしても通らなければいけないルートだ」
エルシャが黙ってしまったせいか、夫は唐突に仕事の話をし始めた。
「あぁ、お義母様から手紙がきていたのはそれでですか」
「そうだ。別に上げられてもいいのだが上げる理由に正統性がない。無駄に金がかかることになる」
「そうですねぇ、嫌がらせか何かですか?」
「まぁ……そうだろうな」
あの伯爵家は裕福なはずだから……まさか、第二夫人や愛人や次の妻にって言われたのを夫が断ったのかな。
「じゃあ、違う領を通りますか? お隣の子爵領を通るとか。あそこの子爵夫人とは以前お茶会で一緒だったのですが、面白いレースを自領で作っておいでで。あれは流行りそうだなと勝手に思っていて取引ができるならそれを口実にルートを変更して」
そこまで口にしてエルシャはハッとする。
父は一緒に食事をしながら仕事の話を愚痴るのだが、女に口を出されるのは好まなかった。ただ黙ってうんうんと頷いて聞いて欲しかったらしい。ついでに「お父様は大変ですね」とか「お父様はそんなお仕事を。凄い」とか言って欲しかったらしい。嫁いでからそれをうっかり失念していた。
「旦那様、申し訳ありません」
「なぜ、あなたが謝る?」
急に頭を下げたエルシャに夫は怪訝そうな表情だ。
夫の表情変化はわずかだが、何となく読めるようになってきた。以前ならこれをただの不機嫌と見ていただろう。
「知ったかぶりをして旦那様のお仕事に口を出してしまいましたので」
「いや、あなたの案を前向きに検討しよう。値上げを受け入れて伯爵に舐められるのも癪だし、子爵領を通るのに大義名分は必要だから助かった」
エルシャは高速で瞬きした。
夫はもうエルシャを執務室から追い出すことはないが、こんなに口出しを許す人だったのか。やっぱりこれは記憶喪失だから? 仕事量がおさえられたから? あーんな姿やこーんな姿を見たから?
「それは……お役に立てて良かったです?」
夫は満足げに紅茶を飲んでいる。エルシャはまた高速で瞬きした。エルシャの様子に夫は気付いたらしい。
「どうかしたのか」
「旦那様は仕事に口を出されるのは嫌なのかと思っていました。以前は用事があっても執務室に入れていただけなかったので、てっきり」
「……きちんとした知識も情報もないのに無責任に口を出されるのは嫌いだが……あなたはそうではない。勉強してくれたことは書類を見れば分かる」
おぉぉぉ、これは褒められた? 褒められている?
「えへへへ。ありがとうございます」
相変わらず夫とは寝室は別である。うなされていないかだけは確認するが。
その日はなぜかベッドにバラの花びらが撒かれていた。なぜだろう、お誕生日だからお風呂に浮かべるために集めて余ったのを撒いてくれたのかな。今日バラのお風呂だったし。
夫が挙動不審に差し出してきたミモザはすでに花瓶に飾られている。それを見てエルシャは幸せな気分で眠った。
来客があったのはエルシャの誕生日の翌日のことだった。
エルシャは義母に近況報告の手紙を書いていたが、屋敷が騒がしいのを疑問に感じた。
「またネズミでも出たのかしら」
窓の外を見ても馬車はいないようだ。
今日は来客の予定などなかったはず。ユーグさんでも訪ねてきたのだろうか。奥様の容態が悪くなっていないといいけれど。
エルシャは夫のいる執務室に向かった。