【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
第五章 契約結婚のキレイな終わらせ方
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結局、建国記念パーティーまで夫との関係は変わらなかった。義母がやたら張り切って明らかに対の夜会服を作っていたが、とてもじゃないが申し訳が立たない。
久しぶりに夫と一緒に乗った馬車の中は葬式状態だった。
視線は合ってもすぐにそらされ、どうでもいい「いい天気ですね」なんていうバカげた会話も続かない。
窓から外を眺めている夫の美麗な横顔をチラチラ見ながら、エルシャはため息を呑み込んだ。最初に離婚しようと言われた時にしておくんだった。そうしたら、今こんな思いをしなくて済んだのに。あれは夫なりの優しさだったのだ。
実家への援助が打ち切られるのは困る。実家はまだ立て直せていないし、エルシャが離婚して戻ったところであの父は事業に関する提案を聞いてくれるわけでもないだろう。これほどいい嫁ぎ先もない。
いや、公爵夫人を数年務めたから少しは話を聞いてくれるだろうか。いやいや、公爵夫人といっても屋敷の中の管理をしていただけだからダメか。公爵夫人として領地を立て直したとか、交渉をまとめたわけでもない。
いい嫁期間はとっくに終了したはずだ。
それなのにエルシャはなぜこんなに傷ついているのだろう。記憶喪失だった期間に夫に近付きすぎたからだろうか。
馬車から下りる際、手を差し出してくれた夫に掴まりながらエルシャは唇を噛みたい気分だった。
夫が怪我をして記憶喪失になって以来の夜会で、馬車から下りた瞬間から結構な視線を浴びることになった。会場に入ってからはさらに視線が飛んでくる。
「カニンガム公爵の記憶は戻ったのだろうか?」
「いつもとは違って揃いで誂えておられますね」
「怪我はすっかり良くなられたようだ」
挨拶回りを行っている最中は周囲でそんな会話がなされていたが、夫が以前と同じようにエルシャを置いて一人で行動し始めてからはやっぱりねという雰囲気が漂った。
「以前と同じですわね」
「記憶喪失でも女性嫌いは変わらないらしい」
「怪我の功名とはならなかったようですね」
「では、階段から落ちる奥方を庇ったのは正義感か?」
「ほぉ、カニンガム公爵は女性嫌いだが紳士ということか」
「あれは美談になっているから困りましたなぁ。私も妻を守るために体を張らねばならない」
「はっはっは。伯爵のところは大丈夫でしょう」
そんなヒソヒソ話とともにエルシャたちを注視していた視線は、あまりに変わらない夫婦にすぐに分散していった。
しかし、エルシャは視線に気疲れしていた。
しばらく一人で食事をした後、手持無沙汰になったエルシャは化粧室に向かった。
以前の階段落ちの件があるので、エルシャに絡んでくる令嬢たちはいない。視線は飛んでくるが、それだけだ。
化粧室から出たところでまた待ち伏せされていることはないわよね、と考えながら出ようとしたところで誰かとぶつかった。
「あ、申し訳ありません」
ぶつかった女性は何も言わず、慌てたように化粧室に駆けこんで……吐いている音がする。体調不良だろうか。
化粧室から出ずにちょっと様子を見ていた。その女性はしばらく吐いていたが、やがて何も音がしなくなった。エルシャがこっそりのぞくと、化粧室で座り込んでいる。
「あぁぁ! えっと休憩室に行きましょう! そちらの方が横になれますから!」
使用人を呼んで女性を運ぶのを手伝ってもらい、水やタオルも用意してもらう。
エルシャはせっせと女性のドレスをゆるめたり、口をゆすぐのを手伝ったりした。弟や妹たちが熱を出して吐いた時によくお世話をしたから慣れている。ちょっと人間のサイズが違うだけの話だ。
女性は飲み過ぎたのか体調不良なのか分からないが、吐いてしばらくしたら落ち着いたようだ。
「ごめんなさい、介抱させてしまって……少し飲み過ぎただけだと思うの」
年齢的にご懐妊ではないだろうなと考えていた。エルシャより十ほどは年上の女性だが、ドレスは高級品だ。男爵夫人とかではないだろう。
「お医者様も呼んでいますから診てもらいましょう」
夫にもこんな風にしたなぁと懐かしく思い出して、あの日々はもう来ないのだと悲しくなる。
「お名前も伺わずに介抱までしてもらって……申し訳ないわ」
「いえいえ、参加者が多いですし私は名乗るほどの者では」
パーティー会場ではいたたまれなかったから、ここでご夫人のお世話をしている方がエルシャは楽だ。
「私はクレア・バクスター。あなたはあまりお見掛けしたことがないのだけれど……」
バクスター、バクスター……あれ、公爵家ですね、バクスターって。
よく見ればご夫人は金髪でとても可愛らしい顔立ちだ。さっきは慌てて駆け込んできた上に調子が悪くやつれて見えたから、年齢が十は上だと思ったが近くで見ると年齢が分からない。
「エルシャ・カニンガムです」
「あぁ、カニンガム公爵家の」
そんな会話をしていると、城の使用人が呼んでくれた医者が入って来た。
エルシャは出て行こうとしたが、バクスター夫人がいてくれと懇願してくるので同席した。
診察で特に流行病でもなかったようで安心していると、今度は貴族らしい男性が休憩室に入って来た。見事な金髪の男性だ。どことなく、誰かに似ているが……誰だっただろうか。
「また飲み過ぎたのか」
「えぇ、そうみたい」
「何度も言っているが、情けない姿をこれ以上晒さないでくれ」
ご夫人の少し嬉しそうな顔を見るにこの方はバクスター公爵かなぁと考えていたら、急に冷えた会話に身がすくんだ。
「申し訳ありません、あなた」
「先に帰ってくれ。私はまだやることがある」
脇にいたエルシャのことが見えていないのか、それだけ言ってバクスター公爵は踵を返した。彼の背に縋るように一瞬、バクスター公爵夫人の手が伸びかけてすぐに落ちる。
この夫婦の関係が今の夫とエルシャを見ているようで胸が痛かった。
「お礼は必ずさせていただきます、カニンガム公爵夫人」
「まぁお気になさらず! そのような大したことはしておりませんから。私は当たり前のことをしただけです」
バクスター公爵夫人を馬車まで送って別れ際にそんなことを言われたが、エルシャとしては当然のことをしただけなので笑って流す。
お互い、先ほどのバクスター公爵の件については何も触れなかった。エルシャも怖くて触れられなかった。詳細をここで聞いてしまったら、将来ああなることが確定してしまうようで怖かった。
夫の「弁えておくように」が「情けない姿をこれ以上晒さないでくれ」になるかもしれない。そう考えるだけでエルシャは怖かった。今でもカニンガム公爵家の役立たずなのに、夫にそんなことを言われたらもっと役立たずになってしまう気がした。
久しぶりに夫と一緒に乗った馬車の中は葬式状態だった。
視線は合ってもすぐにそらされ、どうでもいい「いい天気ですね」なんていうバカげた会話も続かない。
窓から外を眺めている夫の美麗な横顔をチラチラ見ながら、エルシャはため息を呑み込んだ。最初に離婚しようと言われた時にしておくんだった。そうしたら、今こんな思いをしなくて済んだのに。あれは夫なりの優しさだったのだ。
実家への援助が打ち切られるのは困る。実家はまだ立て直せていないし、エルシャが離婚して戻ったところであの父は事業に関する提案を聞いてくれるわけでもないだろう。これほどいい嫁ぎ先もない。
いや、公爵夫人を数年務めたから少しは話を聞いてくれるだろうか。いやいや、公爵夫人といっても屋敷の中の管理をしていただけだからダメか。公爵夫人として領地を立て直したとか、交渉をまとめたわけでもない。
いい嫁期間はとっくに終了したはずだ。
それなのにエルシャはなぜこんなに傷ついているのだろう。記憶喪失だった期間に夫に近付きすぎたからだろうか。
馬車から下りる際、手を差し出してくれた夫に掴まりながらエルシャは唇を噛みたい気分だった。
夫が怪我をして記憶喪失になって以来の夜会で、馬車から下りた瞬間から結構な視線を浴びることになった。会場に入ってからはさらに視線が飛んでくる。
「カニンガム公爵の記憶は戻ったのだろうか?」
「いつもとは違って揃いで誂えておられますね」
「怪我はすっかり良くなられたようだ」
挨拶回りを行っている最中は周囲でそんな会話がなされていたが、夫が以前と同じようにエルシャを置いて一人で行動し始めてからはやっぱりねという雰囲気が漂った。
「以前と同じですわね」
「記憶喪失でも女性嫌いは変わらないらしい」
「怪我の功名とはならなかったようですね」
「では、階段から落ちる奥方を庇ったのは正義感か?」
「ほぉ、カニンガム公爵は女性嫌いだが紳士ということか」
「あれは美談になっているから困りましたなぁ。私も妻を守るために体を張らねばならない」
「はっはっは。伯爵のところは大丈夫でしょう」
そんなヒソヒソ話とともにエルシャたちを注視していた視線は、あまりに変わらない夫婦にすぐに分散していった。
しかし、エルシャは視線に気疲れしていた。
しばらく一人で食事をした後、手持無沙汰になったエルシャは化粧室に向かった。
以前の階段落ちの件があるので、エルシャに絡んでくる令嬢たちはいない。視線は飛んでくるが、それだけだ。
化粧室から出たところでまた待ち伏せされていることはないわよね、と考えながら出ようとしたところで誰かとぶつかった。
「あ、申し訳ありません」
ぶつかった女性は何も言わず、慌てたように化粧室に駆けこんで……吐いている音がする。体調不良だろうか。
化粧室から出ずにちょっと様子を見ていた。その女性はしばらく吐いていたが、やがて何も音がしなくなった。エルシャがこっそりのぞくと、化粧室で座り込んでいる。
「あぁぁ! えっと休憩室に行きましょう! そちらの方が横になれますから!」
使用人を呼んで女性を運ぶのを手伝ってもらい、水やタオルも用意してもらう。
エルシャはせっせと女性のドレスをゆるめたり、口をゆすぐのを手伝ったりした。弟や妹たちが熱を出して吐いた時によくお世話をしたから慣れている。ちょっと人間のサイズが違うだけの話だ。
女性は飲み過ぎたのか体調不良なのか分からないが、吐いてしばらくしたら落ち着いたようだ。
「ごめんなさい、介抱させてしまって……少し飲み過ぎただけだと思うの」
年齢的にご懐妊ではないだろうなと考えていた。エルシャより十ほどは年上の女性だが、ドレスは高級品だ。男爵夫人とかではないだろう。
「お医者様も呼んでいますから診てもらいましょう」
夫にもこんな風にしたなぁと懐かしく思い出して、あの日々はもう来ないのだと悲しくなる。
「お名前も伺わずに介抱までしてもらって……申し訳ないわ」
「いえいえ、参加者が多いですし私は名乗るほどの者では」
パーティー会場ではいたたまれなかったから、ここでご夫人のお世話をしている方がエルシャは楽だ。
「私はクレア・バクスター。あなたはあまりお見掛けしたことがないのだけれど……」
バクスター、バクスター……あれ、公爵家ですね、バクスターって。
よく見ればご夫人は金髪でとても可愛らしい顔立ちだ。さっきは慌てて駆け込んできた上に調子が悪くやつれて見えたから、年齢が十は上だと思ったが近くで見ると年齢が分からない。
「エルシャ・カニンガムです」
「あぁ、カニンガム公爵家の」
そんな会話をしていると、城の使用人が呼んでくれた医者が入って来た。
エルシャは出て行こうとしたが、バクスター夫人がいてくれと懇願してくるので同席した。
診察で特に流行病でもなかったようで安心していると、今度は貴族らしい男性が休憩室に入って来た。見事な金髪の男性だ。どことなく、誰かに似ているが……誰だっただろうか。
「また飲み過ぎたのか」
「えぇ、そうみたい」
「何度も言っているが、情けない姿をこれ以上晒さないでくれ」
ご夫人の少し嬉しそうな顔を見るにこの方はバクスター公爵かなぁと考えていたら、急に冷えた会話に身がすくんだ。
「申し訳ありません、あなた」
「先に帰ってくれ。私はまだやることがある」
脇にいたエルシャのことが見えていないのか、それだけ言ってバクスター公爵は踵を返した。彼の背に縋るように一瞬、バクスター公爵夫人の手が伸びかけてすぐに落ちる。
この夫婦の関係が今の夫とエルシャを見ているようで胸が痛かった。
「お礼は必ずさせていただきます、カニンガム公爵夫人」
「まぁお気になさらず! そのような大したことはしておりませんから。私は当たり前のことをしただけです」
バクスター公爵夫人を馬車まで送って別れ際にそんなことを言われたが、エルシャとしては当然のことをしただけなので笑って流す。
お互い、先ほどのバクスター公爵の件については何も触れなかった。エルシャも怖くて触れられなかった。詳細をここで聞いてしまったら、将来ああなることが確定してしまうようで怖かった。
夫の「弁えておくように」が「情けない姿をこれ以上晒さないでくれ」になるかもしれない。そう考えるだけでエルシャは怖かった。今でもカニンガム公爵家の役立たずなのに、夫にそんなことを言われたらもっと役立たずになってしまう気がした。