【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
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リヒターは執務室に戻ってからイライラしていた。いや、あの手紙をリチャードに見せられた時からずっとイライラしている。
「旦那様」
なぜ、書類上の妻一人にこんなに感情をかき乱されるのか。
足手まといだから手を出すなと言い、弁えてくれとも言っているのに。
「旦那様」
彼女の考えなしの行動にイライラしているのか。
いや、彼女は怪我をしたリヒターにやったようにバクスター公爵夫人を放っておけずに介抱しただけだろう。彼女は普通だ、普通。あのグイグイいく感じで介抱したのがたまたまバクスター公爵夫人だっただけ。なんという確率だ。
そもそも、あそこの夫婦だって城でのパーティーでなければ揃って出席しない。運が良いのか悪いのか。
「旦那様」
彼女がリヒターに何も言わなかったことにイライラしているのか。バクスター公爵が王弟と分からなかったことに腹が立っているのか。
急に手を掴まれて驚く。
家令のリチャードがペンを持ったリヒターの手を掴んでいた。
「旦那様。紙がインクまみれです」
「あ……」
手元の紙はインクで黒くなっていた。書類上の妻に来た茶会の欠席の返事をさっさと書こうと準備したのに。
「奥様とはまだ仲直りされていないのですか?」
「……リチャード、少し一人にしてくれ。考え事がしたい」
「かしこまりました」
弁えているリチャードはすぐに執務室から出て行く。
扉が閉まってからリヒターはインクまみれの紙をくしゃくしゃに握りつぶした。その際、手にまでインクがつく。
この件が王太子にまで知られたら。
インクで汚れた手を眺めながら、リヒターはそんなことを考えて身震いした。
義母にあの件をばらすと脅してくる王太子のことだ。邪魔者を排除するため、そしてそれが国のためになるのなら多少の犠牲は仕方がないと考える人だ。
絶対に書類上の妻にお茶会へ行って何か探ってこいと言うだろう。なかなか公の場に出てこないバクスター公爵夫人ともっと仲良くなるように命令し、探らせるはずだ。
もし、王弟にバレたら?
王太子なら、バレても伯爵家出身の妻くらいどうなってもいいだろうなどと言うだろう。仲が悪かったんだから気にしなくていいと、新しい妻でも斡旋してくるはずだ。
今のところ王弟は税の誤魔化しが数件出ただけで、内通に関与した証拠はない。怪しい人物との接触もない。王太子の手の者と一緒に尾行しても怪しい動きはなさそうだ。正直手詰まりではある。怪我をする前だってあれほど調べていたのだ。相手がいくら用心深いにしても、ここまで何も出ないとは。
王弟は内通に関与していないかもしれない。だが、関与していたらと思うとバクスター公爵家のお茶会になど行かせられない。
リヒターは書類上の妻に嘘はついていない。
記憶が戻ったことは内緒にしていたが……それに、結婚式のケーキのことも思い出していたのにユーグから聞いたとは言った。事実、ユーグからも聞いていた。でも、誓ってさっき妻の部屋では嘘はついていない。
彼女が動きを止めるような言葉を敢えて投げかけた自覚はある。
父に「女は口を挟むな」と言われて弟妹の世話に忙殺されていた彼女のことだ。何か人の役に立とうと行動するのは明らかだった。だから、彼女を危険から遠ざけなければいけない。母よりもずっと遠ざけておかなくてはいけなかった。
リヒターが通行料のことで相談した時の妻のあの嬉しそうな顔を思い出す。他人のために役に立つことに彼女は異様に生きがいを見出している、そんな人だ。だからリヒターが怪我をして記憶喪失になった時にあれほど目をキラキラさせていたわけだ。
でも、彼女はもう役になんて立たなくていい。
生きてリヒターの前にいてくれればそれで良い。自分の存在意義を見出そうとして、あんなに甲斐甲斐しく動かなくていいのだ。彼女はいてくれればいい。笑っていてくれればいい。
彼女を守るにはこうするしかなかった。王太子にも王弟にもバレるわけにはいかない。もう何度かあの温かさに縋ってしまったら、いくら隠してもそれが周囲にバレてしまう気がした。そうしたら、書類上の妻だって母のように不幸にしてしまう。
彼女ほどグイグイとリヒターに近付いて来た女性はいなかった。また彼女の新緑の目と視線が合ったら、きっと呑まれてしまう。一人で戦う孤独に耐え切れなくなってしまう。
契約でも結婚したことをリヒターは酷く後悔した。書類上の妻に斜め上のくすぐり攻撃を受けて、一時でも心を許して話してしまった弱い自分にも後悔した。
金だけで成り立つ関係だと割り切っていたはずなのに。やはり、一時的に記憶喪失になったのがいけなかった。その間に彼女に入り込まれてしまった。
記憶喪失になんてならなければ、彼女を傷つけたくないのと失いたくないのとで葛藤しなくて済んだのに。淡々と放置して今まで通り仕事に集中できたはずなのに。
世話好きだとか、チョコレートが好きだとか。アップルパイを嬉しそうに頬張る姿や、石切りで異様に負けず嫌いを発揮する場面、リヒターが転びかけて身を挺して庇って草まみれになった姿など知らなければ良かったのに。なんなら、今すぐもう一度記憶喪失になれればいいのに。
願って父を殺してしまったかもしれない、母を不幸にしてしまったかもしれない罪悪感にまみれたリヒターでも彼女といたら楽しかった。
その夜、リチャードが書類上の妻からの手紙を預かって持って来た。「旦那様、離婚しましょう」と書かれた妻からの初めての手紙を見て、安堵すればいいはずなのになぜかリヒターは動揺して手紙をくしゃりと丸めてしまった。
これでいい、こっちの方が彼女を守れるはず。それなのになぜか心臓は嫌な音を立てていた。
「旦那様」
なぜ、書類上の妻一人にこんなに感情をかき乱されるのか。
足手まといだから手を出すなと言い、弁えてくれとも言っているのに。
「旦那様」
彼女の考えなしの行動にイライラしているのか。
いや、彼女は怪我をしたリヒターにやったようにバクスター公爵夫人を放っておけずに介抱しただけだろう。彼女は普通だ、普通。あのグイグイいく感じで介抱したのがたまたまバクスター公爵夫人だっただけ。なんという確率だ。
そもそも、あそこの夫婦だって城でのパーティーでなければ揃って出席しない。運が良いのか悪いのか。
「旦那様」
彼女がリヒターに何も言わなかったことにイライラしているのか。バクスター公爵が王弟と分からなかったことに腹が立っているのか。
急に手を掴まれて驚く。
家令のリチャードがペンを持ったリヒターの手を掴んでいた。
「旦那様。紙がインクまみれです」
「あ……」
手元の紙はインクで黒くなっていた。書類上の妻に来た茶会の欠席の返事をさっさと書こうと準備したのに。
「奥様とはまだ仲直りされていないのですか?」
「……リチャード、少し一人にしてくれ。考え事がしたい」
「かしこまりました」
弁えているリチャードはすぐに執務室から出て行く。
扉が閉まってからリヒターはインクまみれの紙をくしゃくしゃに握りつぶした。その際、手にまでインクがつく。
この件が王太子にまで知られたら。
インクで汚れた手を眺めながら、リヒターはそんなことを考えて身震いした。
義母にあの件をばらすと脅してくる王太子のことだ。邪魔者を排除するため、そしてそれが国のためになるのなら多少の犠牲は仕方がないと考える人だ。
絶対に書類上の妻にお茶会へ行って何か探ってこいと言うだろう。なかなか公の場に出てこないバクスター公爵夫人ともっと仲良くなるように命令し、探らせるはずだ。
もし、王弟にバレたら?
王太子なら、バレても伯爵家出身の妻くらいどうなってもいいだろうなどと言うだろう。仲が悪かったんだから気にしなくていいと、新しい妻でも斡旋してくるはずだ。
今のところ王弟は税の誤魔化しが数件出ただけで、内通に関与した証拠はない。怪しい人物との接触もない。王太子の手の者と一緒に尾行しても怪しい動きはなさそうだ。正直手詰まりではある。怪我をする前だってあれほど調べていたのだ。相手がいくら用心深いにしても、ここまで何も出ないとは。
王弟は内通に関与していないかもしれない。だが、関与していたらと思うとバクスター公爵家のお茶会になど行かせられない。
リヒターは書類上の妻に嘘はついていない。
記憶が戻ったことは内緒にしていたが……それに、結婚式のケーキのことも思い出していたのにユーグから聞いたとは言った。事実、ユーグからも聞いていた。でも、誓ってさっき妻の部屋では嘘はついていない。
彼女が動きを止めるような言葉を敢えて投げかけた自覚はある。
父に「女は口を挟むな」と言われて弟妹の世話に忙殺されていた彼女のことだ。何か人の役に立とうと行動するのは明らかだった。だから、彼女を危険から遠ざけなければいけない。母よりもずっと遠ざけておかなくてはいけなかった。
リヒターが通行料のことで相談した時の妻のあの嬉しそうな顔を思い出す。他人のために役に立つことに彼女は異様に生きがいを見出している、そんな人だ。だからリヒターが怪我をして記憶喪失になった時にあれほど目をキラキラさせていたわけだ。
でも、彼女はもう役になんて立たなくていい。
生きてリヒターの前にいてくれればそれで良い。自分の存在意義を見出そうとして、あんなに甲斐甲斐しく動かなくていいのだ。彼女はいてくれればいい。笑っていてくれればいい。
彼女を守るにはこうするしかなかった。王太子にも王弟にもバレるわけにはいかない。もう何度かあの温かさに縋ってしまったら、いくら隠してもそれが周囲にバレてしまう気がした。そうしたら、書類上の妻だって母のように不幸にしてしまう。
彼女ほどグイグイとリヒターに近付いて来た女性はいなかった。また彼女の新緑の目と視線が合ったら、きっと呑まれてしまう。一人で戦う孤独に耐え切れなくなってしまう。
契約でも結婚したことをリヒターは酷く後悔した。書類上の妻に斜め上のくすぐり攻撃を受けて、一時でも心を許して話してしまった弱い自分にも後悔した。
金だけで成り立つ関係だと割り切っていたはずなのに。やはり、一時的に記憶喪失になったのがいけなかった。その間に彼女に入り込まれてしまった。
記憶喪失になんてならなければ、彼女を傷つけたくないのと失いたくないのとで葛藤しなくて済んだのに。淡々と放置して今まで通り仕事に集中できたはずなのに。
世話好きだとか、チョコレートが好きだとか。アップルパイを嬉しそうに頬張る姿や、石切りで異様に負けず嫌いを発揮する場面、リヒターが転びかけて身を挺して庇って草まみれになった姿など知らなければ良かったのに。なんなら、今すぐもう一度記憶喪失になれればいいのに。
願って父を殺してしまったかもしれない、母を不幸にしてしまったかもしれない罪悪感にまみれたリヒターでも彼女といたら楽しかった。
その夜、リチャードが書類上の妻からの手紙を預かって持って来た。「旦那様、離婚しましょう」と書かれた妻からの初めての手紙を見て、安堵すればいいはずなのになぜかリヒターは動揺して手紙をくしゃりと丸めてしまった。
これでいい、こっちの方が彼女を守れるはず。それなのになぜか心臓は嫌な音を立てていた。