【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
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「お酒がお好きなんですか?」
誰もいない休憩室に夫人の手を引いて一緒に入る。夫人を座らせ、水を注いだグラスを渡す。
「いいえ」
まさかの返事があったので、エルシャの頭は一瞬疑問符で埋め尽くされた。
「お酒が好きなわけじゃないの。でも、酔っぱらっていないと辛いのよ。現実を見るのが」
途端にエルシャはシュンとした。意味が分かってしまったからだ。
夫人は水を飲んだが、むせて零してしまう。エルシャは借りていた夫人のハンカチを差し出しつつ、自分のハンカチを取り出して夫人の口元を拭く。
「悪夢の方がまだいいわ。現実の、起きている時間の方が辛いなんてね。そんな現実なんて見たくないから私はよくお酒に酔っぱらっているのよ」
夫人はソファの背に体をゆったりと預けた。
「バカみたいでしょう?」
「いいえ」
「カニンガム公爵夫人は純粋ね。悪い意味じゃないわ。こんな私の情けない姿に呆れず、同情して泣いてくれるなんて」
エルシャはふるふると首を振った。同情ではない、エルシャはバクスター公爵夫人の気持ちが痛いほど分かってしまった。夫に無視されて避けられるあの辛さ。しかも、夫人の場合は最初に愛し合って結婚したはずなのに。これはあんまりだ。
「夫の心が私から離れていくのを感じた時、何でもしたのにね。最初は尽くしたわ。私の実家は裕福だから、金銭面の援助をどんどんしてもらった」
そこはエルシャと全然違う。むしろ、公爵は援助してもらってよく夫人に冷たくなれるものだ。
「社交も私なりに頑張った。でも全然ダメだった。今度は嫉妬させようと護衛騎士を誘惑してみた。でも、呆れられただけ。次にギャンブルかしら。あれはあまり性に合わなくて。葉巻も吸ってみたけどダメ。お酒はなんとか少しなら飲めるけど、私はそこまで強くないのよ。ワインなんて美味しくないし。でも、現実よりも苦くはないわ。何をやっても夫はあの頃のように私を見てくれることはなかった。呆れて嫌がって家から出て行くだけ」
バクスター公爵夫人はほろ酔いだからかよく喋る。その内容があまりに痛くて、エルシャは涙が止まらない。
「どうしてあなたがそんなに泣くの」
「だって……公爵夫人が……」
可哀想と言いかけて、止めた。違う、彼女は可哀想だが可哀想なんじゃない。ただ、愛した人に同じように愛されたかっただけだ。そのために努力して努力して疲れ切ったのだ。今の彼女は、ボロ雑巾なのだ。
「今日、私ではなくて……バクスター公爵に最初に声をかけて欲しかったんですね……」
さっきエルシャが声をかけた時、夫人は一瞬だけ寂しそうな顔をした。あれは他の誰かであって欲しかったからだ。
「ふふ、バカみたいでしょう?」
「……いいえ。そんなことはありません」
他の誰でもない、夫に気付いて欲しい。エルシャみたいな他人ではなくて。
だって、エルシャも最近夫が体調を気にかけてくれて嬉しかったから。たったそれだけでいいのに。バクスター公爵は「情けない姿を晒すな」なんて言わず、一言「大丈夫か」と声をかければ良かった。
「あまりに気にかけてもらえないから、とうとう犯罪にまで手を染めてしまったわ」
「……情報を漏洩していることですか?」
「最初は税金の改ざんだったの。あの人、ある時期から私に押し付けてやらないのよ。苦手なんですって。だからあの人の筆跡を真似てやっていたの。そうしたら初期のミスがあって。でも、誰からもミスを指摘されていなかったから私もたまにやっていたわ。お小遣いね」
なぜだろう、今日の夫人は酔っているせいか本当によく喋る。でも、それだけだろうか。エルシャときちんと会話するのはまだ二回目なのに。もしかして今日、何かに賭けていたのだろうか。
「あの、夫人。何かありましたか」
「何か、ねぇ。カニンガム公爵夫人に出会ったことかしらね」
「そんなことは……」
「あるわ。だって、あなたは本当に私と同じなんだもの」
バクスター公爵夫人は急に身を起こすと、エルシャの頬に手を添えた。
「可哀想に。あなたも夫を愛してしまったのね」
「え?」
「カニンガム公爵のことよ。愛さなければ良かったのに」
え? どういうこと?
「愛していなかったら私の話で泣かないはずよ。あんな視線でカニンガム公爵のことも見ないはず。あなたは本当に私と同じ。だからついついお節介を焼いてしまったわ。らしくもないわね」
待って。あんな視線って何? どんな視線?
それに、エルシャは夫のことを大切に思っているだけで愛してはいない。無理矢理括るなら家族愛だ。
「あとはね、私。昨日誕生日だったの。なんと王太子殿下と一日違いね」
「おめでとうございます」
「ありがとう。ここから私が言いたいことは分かるかしら?」
「……バクスター公爵は何も贈り物をされなかったのですね?」
「そうよ、見かねた家令が贈り物をくれたわ。夫の筆跡を必死に真似して。もう何年も前からそう。あの健気な家令はそんなことをしてくれているの。私がそれにどれだけ傷つくかも知らずに。でも、私はバカみたいに喜んでおくわ」
引っ込んだ涙がまた出てきそうになった。思わず鼻をすする。
「あなたは? お誕生日の贈り物は?」
「……結婚して以来、いただいたことはありません」
ミモザの花とアップルパイについては嘘をつくことにした。まだ買いに行っていないからセーフである。
「食事は?」
「夫は帰宅が遅いので別です」
夫人はエルシャの頬を、そっと円を描くように撫でた。
「私はもう疲れてしまったのよ。夫の愛を期待して暮らすことに。内通までしているのに、私を見ることさえしない夫に」
「バクスター公爵に止めてもらいたいから……内通まで?」
「そうよ。これだけやれば気付いてくれると思っていたのに……でも、もうそれもおしまい。私は疲れたわ。だから、もう終わりにするの」
「他国に行かれるんですか?」
「そうよ。あなた、情報は持って来た?」
「はい……」
エルシャはそっとポケットから折りたたんだ紙片を取り出した。
バクスター公爵夫人はそれを受け取って目を細めて眺める。
「事業で使う資材と……」
「見れば分かるわ。これは使えるわね。よく頑張って忍び込んだわね」
「はい……いつも追い出されてしまうので……」
夫人は紙片を自分のドレスのポケットに入れた。
「一週間後の正午にクレト港まで来なさい」
「え?」
「そこから出発するわ」
「は、はい……」
「無理そうなら近くまで馬車を回すけど」
「お、お願いします」
「分かったわ」
「もしかして、そこから他国に?」
「そうよ。もうあんな夫なんて要らないでしょう。バカみたいに尽くして散々吸い取られて。私みたいになるだけよ。あなたはカニンガム公爵への愛は捨てられる? 捨てられないなら来なくていいわ。お金だけあげる」
「私、そもそも旦那様のことを愛していません」
王太子の部下がどこかにいるだろうと思いながらも、エルシャは言い切った。それなのに、バクスター公爵夫人には鼻で笑われた。
「バカな子ね」
先ほどまで弱弱しかった夫人の背筋はいつの間にかピンと伸びている。
「自分がどんな目でカニンガム公爵を見ているか、本当に分かっていないのね」
「私は……旦那様のことを愛していません」
「そんなことを言って。他の誰にも分からなくても、私には分かるわよ」
夫人は急に立ち上がると、テーブルの上にあった彫刻を掴む。そして、部屋の唯一のクローゼットまで歩いて行った。バンッとクローゼットを開けて、夫人は誰かを引っ張り出す。そして抵抗する侍女らしき人を彫刻で殴った。
「ひっ!」
突然クローゼットの中から現れた人物と突然の暴力に、エルシャはついていけなかった。夫人は何度か殴った後、エルシャに向き直る。
「裏切ったわね」
ほろ酔いだった弱弱しい夫人はどこにもいない。髪を乱して目を怪しく輝かせる夫人がそこにいた。
誰もいない休憩室に夫人の手を引いて一緒に入る。夫人を座らせ、水を注いだグラスを渡す。
「いいえ」
まさかの返事があったので、エルシャの頭は一瞬疑問符で埋め尽くされた。
「お酒が好きなわけじゃないの。でも、酔っぱらっていないと辛いのよ。現実を見るのが」
途端にエルシャはシュンとした。意味が分かってしまったからだ。
夫人は水を飲んだが、むせて零してしまう。エルシャは借りていた夫人のハンカチを差し出しつつ、自分のハンカチを取り出して夫人の口元を拭く。
「悪夢の方がまだいいわ。現実の、起きている時間の方が辛いなんてね。そんな現実なんて見たくないから私はよくお酒に酔っぱらっているのよ」
夫人はソファの背に体をゆったりと預けた。
「バカみたいでしょう?」
「いいえ」
「カニンガム公爵夫人は純粋ね。悪い意味じゃないわ。こんな私の情けない姿に呆れず、同情して泣いてくれるなんて」
エルシャはふるふると首を振った。同情ではない、エルシャはバクスター公爵夫人の気持ちが痛いほど分かってしまった。夫に無視されて避けられるあの辛さ。しかも、夫人の場合は最初に愛し合って結婚したはずなのに。これはあんまりだ。
「夫の心が私から離れていくのを感じた時、何でもしたのにね。最初は尽くしたわ。私の実家は裕福だから、金銭面の援助をどんどんしてもらった」
そこはエルシャと全然違う。むしろ、公爵は援助してもらってよく夫人に冷たくなれるものだ。
「社交も私なりに頑張った。でも全然ダメだった。今度は嫉妬させようと護衛騎士を誘惑してみた。でも、呆れられただけ。次にギャンブルかしら。あれはあまり性に合わなくて。葉巻も吸ってみたけどダメ。お酒はなんとか少しなら飲めるけど、私はそこまで強くないのよ。ワインなんて美味しくないし。でも、現実よりも苦くはないわ。何をやっても夫はあの頃のように私を見てくれることはなかった。呆れて嫌がって家から出て行くだけ」
バクスター公爵夫人はほろ酔いだからかよく喋る。その内容があまりに痛くて、エルシャは涙が止まらない。
「どうしてあなたがそんなに泣くの」
「だって……公爵夫人が……」
可哀想と言いかけて、止めた。違う、彼女は可哀想だが可哀想なんじゃない。ただ、愛した人に同じように愛されたかっただけだ。そのために努力して努力して疲れ切ったのだ。今の彼女は、ボロ雑巾なのだ。
「今日、私ではなくて……バクスター公爵に最初に声をかけて欲しかったんですね……」
さっきエルシャが声をかけた時、夫人は一瞬だけ寂しそうな顔をした。あれは他の誰かであって欲しかったからだ。
「ふふ、バカみたいでしょう?」
「……いいえ。そんなことはありません」
他の誰でもない、夫に気付いて欲しい。エルシャみたいな他人ではなくて。
だって、エルシャも最近夫が体調を気にかけてくれて嬉しかったから。たったそれだけでいいのに。バクスター公爵は「情けない姿を晒すな」なんて言わず、一言「大丈夫か」と声をかければ良かった。
「あまりに気にかけてもらえないから、とうとう犯罪にまで手を染めてしまったわ」
「……情報を漏洩していることですか?」
「最初は税金の改ざんだったの。あの人、ある時期から私に押し付けてやらないのよ。苦手なんですって。だからあの人の筆跡を真似てやっていたの。そうしたら初期のミスがあって。でも、誰からもミスを指摘されていなかったから私もたまにやっていたわ。お小遣いね」
なぜだろう、今日の夫人は酔っているせいか本当によく喋る。でも、それだけだろうか。エルシャときちんと会話するのはまだ二回目なのに。もしかして今日、何かに賭けていたのだろうか。
「あの、夫人。何かありましたか」
「何か、ねぇ。カニンガム公爵夫人に出会ったことかしらね」
「そんなことは……」
「あるわ。だって、あなたは本当に私と同じなんだもの」
バクスター公爵夫人は急に身を起こすと、エルシャの頬に手を添えた。
「可哀想に。あなたも夫を愛してしまったのね」
「え?」
「カニンガム公爵のことよ。愛さなければ良かったのに」
え? どういうこと?
「愛していなかったら私の話で泣かないはずよ。あんな視線でカニンガム公爵のことも見ないはず。あなたは本当に私と同じ。だからついついお節介を焼いてしまったわ。らしくもないわね」
待って。あんな視線って何? どんな視線?
それに、エルシャは夫のことを大切に思っているだけで愛してはいない。無理矢理括るなら家族愛だ。
「あとはね、私。昨日誕生日だったの。なんと王太子殿下と一日違いね」
「おめでとうございます」
「ありがとう。ここから私が言いたいことは分かるかしら?」
「……バクスター公爵は何も贈り物をされなかったのですね?」
「そうよ、見かねた家令が贈り物をくれたわ。夫の筆跡を必死に真似して。もう何年も前からそう。あの健気な家令はそんなことをしてくれているの。私がそれにどれだけ傷つくかも知らずに。でも、私はバカみたいに喜んでおくわ」
引っ込んだ涙がまた出てきそうになった。思わず鼻をすする。
「あなたは? お誕生日の贈り物は?」
「……結婚して以来、いただいたことはありません」
ミモザの花とアップルパイについては嘘をつくことにした。まだ買いに行っていないからセーフである。
「食事は?」
「夫は帰宅が遅いので別です」
夫人はエルシャの頬を、そっと円を描くように撫でた。
「私はもう疲れてしまったのよ。夫の愛を期待して暮らすことに。内通までしているのに、私を見ることさえしない夫に」
「バクスター公爵に止めてもらいたいから……内通まで?」
「そうよ。これだけやれば気付いてくれると思っていたのに……でも、もうそれもおしまい。私は疲れたわ。だから、もう終わりにするの」
「他国に行かれるんですか?」
「そうよ。あなた、情報は持って来た?」
「はい……」
エルシャはそっとポケットから折りたたんだ紙片を取り出した。
バクスター公爵夫人はそれを受け取って目を細めて眺める。
「事業で使う資材と……」
「見れば分かるわ。これは使えるわね。よく頑張って忍び込んだわね」
「はい……いつも追い出されてしまうので……」
夫人は紙片を自分のドレスのポケットに入れた。
「一週間後の正午にクレト港まで来なさい」
「え?」
「そこから出発するわ」
「は、はい……」
「無理そうなら近くまで馬車を回すけど」
「お、お願いします」
「分かったわ」
「もしかして、そこから他国に?」
「そうよ。もうあんな夫なんて要らないでしょう。バカみたいに尽くして散々吸い取られて。私みたいになるだけよ。あなたはカニンガム公爵への愛は捨てられる? 捨てられないなら来なくていいわ。お金だけあげる」
「私、そもそも旦那様のことを愛していません」
王太子の部下がどこかにいるだろうと思いながらも、エルシャは言い切った。それなのに、バクスター公爵夫人には鼻で笑われた。
「バカな子ね」
先ほどまで弱弱しかった夫人の背筋はいつの間にかピンと伸びている。
「自分がどんな目でカニンガム公爵を見ているか、本当に分かっていないのね」
「私は……旦那様のことを愛していません」
「そんなことを言って。他の誰にも分からなくても、私には分かるわよ」
夫人は急に立ち上がると、テーブルの上にあった彫刻を掴む。そして、部屋の唯一のクローゼットまで歩いて行った。バンッとクローゼットを開けて、夫人は誰かを引っ張り出す。そして抵抗する侍女らしき人を彫刻で殴った。
「ひっ!」
突然クローゼットの中から現れた人物と突然の暴力に、エルシャはついていけなかった。夫人は何度か殴った後、エルシャに向き直る。
「裏切ったわね」
ほろ酔いだった弱弱しい夫人はどこにもいない。髪を乱して目を怪しく輝かせる夫人がそこにいた。