さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~

7

 クローゼットの中にいたのは、王太子殿下の部下?
 どうしてクローゼットの中に隠れていたの? 秘密の部屋や天井裏じゃなくって?

「ご、誤解です!」
「じゃあ、なんでこんなところに使用人がいるの?」
「知りません! その……えっと、逢引きとか?」

 バクスター公爵夫人はエルシャの方にズンズン近付いてくる。
 エルシャは震えながら弁明した。だって、本当に知らないのだ。

 夫人はエルシャから五歩ほど離れたところでふと立ち止まる。片手には、何でできているか分からない彫刻をまだお持ちだ。

「そういえば、あなた……」
「は、はい!」
「やっぱり裏切っていたのね……」
「違います!」
「思い出したわ。酔っていて一瞬忘れていた。だって、今日のあなたとカニンガム公爵は様子が少し違ったもの」
「どこがでしょうか? 今日も挨拶回りが終わったら一人になりましたが。父には会いましたけれども」

 エルシャは両手を胸の辺りに上げながら、夫人に落ち着いて欲しいとジェスチャーをする。

「去り際に公爵はあなたの手を握っていたじゃないの」

 ひぃ! エルシャは思わず悲鳴を上げそうになった。
 あんな一瞬を逃さずにどこで見ていたんですか?

「パフォーマンスでしょう。私のことを旦那様はすっぽり忘れていて……そんな妻なら余計に要らないだろうと愛人候補者がたくさん湧きましたから……」

 エルシャの手は恐怖ではなく、何か別の感情で震えた。夫人はエルシャの震えを見て、一瞬で怒りが抜け落ちた表情になる。

「愛人ね……昔、夫にもいたわ。あの人、屋敷の私の侍女に手を出したのよ」

 そ、そんな先代カニンガム公爵のようなことを!

「私のお気に入りの子だったのにね。知らないところで二人でむつみ合っていたのよ。夫婦の寝室でね」

 エルシャは出てきた事実にぞっとした。酷すぎる、そんなこと。

「しかも妊娠までしたのよ。許せないわ。私はどんなに頑張っても妊娠できなかったのに。だから、絶対に殺してやろうと思った。そうしたら察したのかあの子は逃げ出してね。どこに行ったと思う?」
「……教会でしょうか?」
「カニンガム公爵家よ。私に狙われるから同じくらい権力のある家に行ったのか。それともたまたま通りかかった馬車に救われたのか知らないけれど」

 エルシャの呼吸は止まりそうになった。
 カニンガム公爵家に逃げ込んだ、妊娠したメイドの話。夫がしてくれた話で、夫が目撃したのはもしや……。先代カニンガム公爵がなぐさめていたメイドはまさか。

「あら、その顔。やっぱりあなたは裏切っていたのね。だってこのことは知られていないでしょう? 私がそのメイドを執拗に狙って殺したことも」

 嘘でしょう? じゃあ、先代カニンガム公爵が亡くなったのは……。
 いろいろ考えていると休憩室の扉がバンッと開いた。

「エルシャ!」

 夫の声だ。夫人はその声に驚いて体を震わせたが、すぐにエルシャに掴みかかろうとしてきた。

「エルシャ!」
「ご、ごめんなさい!」

 エルシャは夫人の腕を掴むと捻りあげて、床に放り投げた。夫人が勢いよく向かってきてくれたので勢いがついてしまった。弟たちとよく遊んでいたのでこういう動きは得意なのだ。そして、夫人は酔いの名残でうまく力がはいっていなかった。

「ああっ!」

 夫人はバランスを取り切れず、そのまま床に投げ出される。素材が何か分からない彫刻も投げ出された。
 休憩室の扉からドヤドヤ人が入って来る。夫と、騎士や部下たちと王太子だろうか。

「怪我は?」
「ないです」
「殿下! なぜもっと早く踏み込んでくださらないんですか!」

 夫は駆け寄って来て無事を確かめると、王太子に食って掛かっている。
 エルシャとしては彫刻で殴られた使用人が心配だが、今身じろぎしているので無事だろう。

「公爵が踏み込んだじゃないか。それに、ここから内通ルートを探るという話だった、まだその話は出ていなかった」
「妻をこれほど危険に晒すなど、王太子殿下は何を考えているんですか!」
「こういうのは仕方のない犠牲だ」
「あの、扉を閉めてもらえますか?」

 夫と王太子の会話にエルシャは割って入った。二人は意外そうに黙った。

「これでは会話が洩れますし、夫人のこともウワサされます」
「犯罪者にそんな配慮は不要だ、カニンガム公爵夫人」
「いいえ、必要です」
「君は一体、誰に向かって口をきいているんだ?」

 今度はエルシャが王太子に食って掛かる。夫は一瞬呆然としたが、すぐに合図をすると近くの騎士が扉を閉めてくれた。エルシャはほっと力を抜いた。そして、助け起こされようとしている夫人に視線を向ける。

 税金の誤魔化しや内通は許されない。メイドの殺害も。そして先代カニンガム公爵が巻き込まれていることも。でも、エルシャは夫人だけが悪いとは言いたくなかったし、夫人だけを責めたくなかった。

「夫人はもうこれ以上傷つかなくていいはずです」
「笑えるな。絆されているのか、公爵夫人」

 王太子は会場にいる時とは違い、作り笑いさえ浮かべていない。目にはありありと蔑みの色が見える。
 こんな表情の男性に話をするのは怖かった。「女は口を挟むな」という言葉がすぐに出てきそうだから。でも、言わなければいけない。

「男爵令嬢が格上と結婚して、嫁いだ先で苦労して傷だらけで頑張ったんです。身分の壁は厚いですし、作法も何もかも違います。そんな中で助けもなく笑われながら夫に尽くしたんです。彼女は領地経営の書類仕事だってやっていました」
「やはり、絆されているではないか」
「そんな彼女に私は敬意を払いたいだけです。たとえ、こんな結果であっても」

 夫がエルシャの肩に手を置いた。手が少し震えている。

「身分差結婚は珍しいが、ないことはない。男爵令嬢が王妃になって立派に務めた例だって過去にはある。嫁いで頑張るのは当たり前じゃないか」
「夫人は結婚してたくさんのものを失いました。でも、夫である公爵はその上に胡坐をかいているだけで何も失っていません。頑張るのが当たり前ならば、そして王太子殿下が優秀で頑張ったなら、夫や私の助けなどなくともこの件は解決したはずではないですか。殿下お一人で。できていないのに夫人の努力を普通とおっしゃるのはおかしいです」

 王太子は気分を害したらしい。エルシャを見る目が一層冷たくなる。

「ただ夫の愛を求めて、彼女は方向を間違っただけです。なぜ公爵は一切悪く言われないのですか? 結婚した妻に途中から手を差し伸べることもなく、領地経営もせず、浮気をしていたのになぜ責められずに妻が悪いことになるのですか。もちろん公爵も罰を受けるでしょうが、夫人と同じくらい悪く言われるべきです」
「カニンガム公爵夫人。あなたは明白にこの件の功労者の一人だが、たまたま手柄を立てた女性にそこまで首を突っ込まれる謂れはない。同情するのは結構なことだが、彼女は法の下に裁かれる」

 あぁ、やっぱりそうなのか。やっぱり、どんなに何かを頑張っても結局その言葉を言われるのか。
 エルシャと王太子の間に一瞬沈黙が落ちる。

「殿下、それは言い過ぎです。女性に首を突っ込まれる謂れはないというところは訂正してください。妻の行動がなければ自白さえ引き出せず、公爵夫人にも国外に逃げられていた可能性だってあるのですから。偶然でも何にしても、彼女は私たちよりも成果を引き出しました。同情でも発言権はあるはずです」

 意外にも口を挟んだのは夫だった。
 エルシャの肩に置いた夫の手はまだ震えている。公爵である夫でも、王太子に歯向かうのは怖いのだ。脅されていたこともあるだろう。

「そして、バクスター公爵も今すぐ拘束すべきです。領主なのに経営もせず逃げ回っているなら公爵を名乗る資格はありません。殿下は人をうまく使うことと、唯々諾々と命令に従わせることをはき違えておられます」

 エルシャはそっと肩に置かれた夫の手に自身の手を重ねた。

「ふふっ。あはははっ」

 急に場違いな笑い声が上がる。
 全員の視線が笑いの発生源である、床から身を起こしただけのバクスター公爵夫人に向かった。王太子は気味が悪そうにしている。

 ひとしきり声が掠れるほど笑ってから夫人は口を開いた。

「お水をいただけるかしら」

 渡された水を飲んでから、彼女は大きく息を吐いた。今や部屋中の視線を彼女が集めている。騎士に警戒されながら、彼女はゆっくり立ち上がった。

「まさか、カニンガム公爵夫人が言いたいことをすべて口にしてくださるなんて思いませんでした」

 そう口にして、王太子に向かって綺麗なカーテシーをする。酔っているせいか、あるいはエルシャが床に投げ飛ばしたせいか一瞬ぐらついたが、それでも綺麗なカーテシーだった。それは彼女の努力を示しているようでもあった。

「もう、降参します。王太子殿下」
「どういうことだ」
「内通のルートも何もかも、すべてお話します。夫は昨日私の誕生日を祝ってくれなかった。昨日が終わった瞬間から、こうなることは覚悟していました。いえ、少し望んでさえいました」

 王太子も、部下のうちの数名も「そんなことで?」と言いたげな表情を一瞬見せる。エルシャにはそれがとても傲慢に見えた。引き金がそれだっただけだ。それまでの積み重ねが数えきれないほどある。エルシャのつまらない共感や同情で救えないほどの何かがある。

「もう、疲れました。愛した夫からの愛さえ期待できなくなるのは。私はゴミを腐るまで大事に持って捨て損ねたのです。王太子殿下も将来の妃殿下がこうならないことを切に願います」

 バクスター公爵夫人は犯罪者だ。内通のことがなくても、休憩室でエルシャに襲い掛かり、使用人にも暴力をふるった。それだけで犯罪だ。でも、彼女がこの場を支配していた。一番権力のある王太子ではなく、彼女が。

 彼女は騎士たちに連れられて行く。
 出て行く前にエルシャの方を振り返った。

「カニンガム公爵夫人。あなたの結婚は失敗しないといいわね。私は、こんな未熟な私は、結婚なんてしてはいけなかった」

 背筋をピンと伸ばして連れられて行く夫人は、どう見ても結婚に失敗した女性ではなかった。結果から見たら失敗したかもしれない。でも、とても人間臭い。嫁いだ先であがいて諦めてそれでも諦めきれなくて愛に縋った人を、失敗と呼びたくなかった。

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